つい、目線を送ってしまう2015/02/09 23:33:21

寒い一日。
昨日の妻らがつくってくれたなべ料理を、けさはごはんをいれてオジヤ風にしてみた。朝食には少々物足りないかもしれないが、消化にいい。ほどよい熱さにごはんとなべのスープや豆腐、こんにゃくや鶏肉がからまっておいしかった。冬はやっぱりなべ料理がいいねえ。

と、書きながら思い出した。
昨日の、出し物練習のあとで交わした会話のことだ。
内容は触れないが、手話ができるようになると、手話がわからない聴者の中に入るとき、手話ができる前以上にストレスを感じるようになった。どういうことかというと、手話がわかる前は筆談を頼むしかなかったのが、手話が分かるようになって以後は人の会話が始まったらすぐに手話通訳士や通訳士や手話ができる聴者に目を向けるくせがついてしまった。
もちろん善意であったりこころからの気持ちで通訳をしてくれることはとてもうれしい。こちらも一生懸命読み取りたい。しかし、目線を向けると、相手にしてみれば「通訳しなくちゃ」というプレッシャーがかかるのではないだろうか。
そのへん、通訳してくれる人には聞きづらいなあと思うこともある。
とくに日本では「以心伝心」という言葉があるように、言わなくてもわかるだろうというような、空気というか場というか雰囲気というか、そういうものを大事にする。
さりげなく通訳する、というのは簡単だが、実際は手話ができる聴者がいるとついつい、目線を送ってしまう。

妻はまだそこまでのレベルには達していない。でも将来レベルが上がって通訳ができるようになったら、どうするべきだろうか。昨日行った教会では「もし教会の礼拝などで通訳をしてくれたら、自宅に帰ってからは妻に通訳をお願いしないというくらいの厳しさがわたしには必要だと思う」と話した。実際、手話通訳というのは神経をすり減らす、たいへんなものだ。

うーん、いかんなぁと思いながら、やっぱり手話ができる人がいるとうれしいあまりに、ジレンマを抱えながら目線を送ってしまうのだった。