世界の終わりを気にするよりも2014/10/28 23:49:20

2カ月ほど前からネット上では、「携挙が起こる」「キリストが来られる」などといった書き込みが話題になっていた。クリスチャンではない方、キリスト教について知らない方のために少し説明をすると、

携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。
というものだそうだ(引用はウィキペディアから)。
初代教会はそんな考え方はしなかったようだ。歴史的には19世紀ごろからプロテスタント教会、福音派やペンテコステ派で広まったと言われている。

そこで、近々携挙が起こるなどという話がネットで広まっていたという。
10月10日に起こるとか、神さまが延長されて11月に起こるとか。

わたしも以前、中学生のころだったかノストラダムスブームに乗っかって「1999年7月にこの世が終わる」という話を真に受けていたことを思い出す。いくぶんかの恥ずかしさと、若いころだから純粋だったなあと思える一方、世界の終わりを公に言ったり書いたりするのはおかしいとあらためて実感反省しなくてはならない。

もし仮にそうだとしても、自分に指し示されたという前に一歩引いて冷静になれないものか。主観にひきずられてしまい、客観的に物事を見つめられない愚かしさ。自分が信じているからといってそれを声高に主張するあまりに周囲を見つめられない、視野が狭くなってしまう。さらには自分の主観的体験が中心土台になって、本来の中心であるべき聖書から逸脱してしまう。
宗教にハマるというか熱心になりすぎることのこわさをつくづく感じさせられる。

「もし明日で世界が終わるとしても、わたしはりんごの木を植える」と言ったのはマルティン・ルターだったか。
いつ世界が終わろうとも、わたしにはわたしにしかできないことがあり、わたしには家族がいる。その家族のために生きることが与えられているのだ。
だからヘンテコな終末論なんかに惑わされずに、しっかり足を地につけて歩いていくしかない。どうせいつかはやってくるのだから、ジタバタあせったり騒いだりしている方がバカバカしいというもの。
信仰を持つことと信仰に振り回されて土台が見えなくなってしまうことを混同しないように、気をつけていきたいものだ。ましてや惑わそうとしている者に気をつけることはいうまでもない。