自分で考える、よく考え、見極めていくこと2014/10/11 15:27:43

先日、ノーベル物理学賞受賞が決まった、日本人3人。その授賞理由は「青色LEDの開発と実用化」だそうだ。
日本人3人のうち、中村修二さんは実は日本国籍を捨てて現在、アメリカ国籍を取得してカリフォルニア大学サンタバーバラ校で教鞭をとるかたわら研究生活に励んでいるという。
残りの2人も含めて、青色LEDがわれわれの生活にもたらした恩恵や影響ははかりしれないものだし、すばらしい業績であることに疑問の余地はない。

ただ、少しばかり考えさせられることがあった。
中村さんが今年3月のある新聞社のインタビューに対して「本に書いてあることはもう死んだ知識で、過去の遺産だ」と答えたことだ。
これを、どう読み理解するか。

いまの若い人はあまりどころかほとんど新聞を読まない。高校生や大学生の親世代ですら新聞を読まないそうだから、家庭で新聞をとらないのはあたりまえかもしれない。そうするとさきに挙げた記事自体、知らないかもしれない。しかしこのインタビューを読んだ若い人がヘンに影響されて「このインタビューにあるように、本を読まなくていいんだ」と勘ちがいしてしまったら困るなぁとつくづく考えさせられた。

「本を読まなくていいんだ」と、字句通りに受け取るのは、かえって危険ですらある、というのが結論だ。
たしかに彼の言葉に一面の真理はあるだろう。しかし、だからと言って読まなくていいという理由にはならない。
科学にしろ文学にしろ宗教にしろ医学にしろ、過去のデータや先人が何を、どう考えてきたかの知識の膨大な蓄積が、本、書物となって遺され、いまもなお読み継がれてきているのだ。聖書しかり、コーランしかり、数学の公式しかり医学書しかり。
中村さんだって、今日にいたるまで一度もまったく本を読まなかったということはないだろうしあり得ないと思う。少なくとも研究や実験の途上では、過去のデータや研究結果を知りたい調べようと、文献にあたったことは一度や二度ではないはず。なぜなのだろうと思ったら当然過去の資料にもあたっただろう。そしてその実証もしたのではないだろうか。
そのなかから、必要なものだと思われるものと不要だと思われるものを取捨選択してきたはずだ。

いまはネットがあっていつでもどこでも気軽に情報を手に入れようと思えばいくらでもできる。ニュースだけではなくさまざまな情報が洪水のように流れてきて、無料だと思い込んでいる人さえいる。しかしその裏には、いろんな人の手がかかわっているものである。
ネットは一方的に送られてくる。それは一方ではウソとホントの見分けが難しいということでもある。Lie、Fake、 BullfinchとFactがまぎれ込んでいる場合もあれば見分けがつかない場合もある。悪意を持ってウソを流しているケースだってあり得る。

残念ながら、この世の中にはそういうものがごまんとある。キリスト教だってそうだ。
こころしてあたらないと、「有名な人が言っているから」「海外の力ある人だから」とホイホイついていってだまされることもある。人間はもろいから、自分の視野や視点に引きずられたりバイアスがかかったものしか受け入れないことがある。自分が信じているものしか受け入れない、それ以外はウソだと思いたがる生き物でもある。残念だけど。

はじめに、若い人だけではなくその親世代から、新聞や本を読まなくなってきていると書いた。
だからといってネットがすべて正しい、というのも危険である。ここで書いていて矛盾しているかもしれないが、また中村さんが「本に書いてあることはもう死んだ知識で、過去の遺産だ」と言ったことを真に受けて字句通り解釈している人はそういないのかもしれない。しかし、これだけネットが身近になったいま、自分で考える、リテラシーというか力の低下を感じる。
周囲に左右されず、よく考え、見極めていくことがわたしたちに問われているのではないだろうか。