いかなる暴力にも屈しない2014/10/04 14:54:23

先日ある新聞社の元記者2人が、退職後は大阪と札幌の大学にそれぞれ教授、非常勤講師として勤めているこの2つの大学に脅迫文が届いた。
脅迫文には、教授や非常勤講師の退職を要求し、応じなければ学生に危害を加える、という。
「辞めさせなければ学生に痛い目にあってもらう。釘を入れたガス爆弾を爆発させる」ともあった。
わたしはいかなる理由があっても、こうした暴力、暴力によって自由な意見やものを言えなくさせ、自分の意見だけを押し通そうという行為には屈しないし、反対である。

一週間前に終わった、第9回コスモス朗読会。わたしは第2回から、手話と声の両方で表現している。まずこのことに触れなくてはならない。

わたしは5歳で聞こえなくなった。だんだん聴こえが落ちてきていまは左右ともに110㏈前後の聴力だ。110㏈というのはひらたくいってしまうと、ジェット機エンジンのエンジン音を裸耳、なにもつけない状態でやっと聞こえるというレベルである。健聴者だったらとても耐えられない音であり、空港の飛行機のエンジン整備スタッフは当然耳保護のために耳栓をしている。110㏈は、医学的専門的に言うなら、重度のろうに近いレベルである。いまこれを書いているキーボードの音もかすかにしかわからない。
その一方でわたしは健聴者と同じようにきれいに話せる。街でデパートやショッピングのときなど相対した人には話せるから、相手には聴こえているもの、と思われてしまう。しかしさきにも書いたようにろうに近い等しい聴力だから聴こえない。
きれいに話せる一方でろうであるという現実。それは、わたしがいったい何者なのか。ろう者なのか聴者なのかという問いかけを生んだ。どっちつかずのようなあいまいな思いで苦しんできた。しかし、朗読と出会い学んできて、朗読はたしかに声で表現するものであるけれど、聴者だけのもの、聴こえる人だけのものだろうかという疑問が生まれてきた。わたしのように話せるけれど聴こえないろう者にとっては声だけでは楽しめない。
聴こえない人聴こえる人、ともに楽しめる朗読もあっていいのではないか。そう思い、いくつもの反対や壁を超えて手話つき朗読にチャレンジしてきた。そこでわたしはろう者だと。しかし手話と声で語ろう表現しようという光をみいだした。やっと自分らしくなれたのだ。

卑劣な暴力、脅迫には屈しない2014/10/04 15:32:46

話を戻そう。
さきに書いた大学への脅迫文。
自分の意見を押し通そう、言いなりになってもらおうと、学生を人質にして、自分と異なる考えを持つ者を力づくで排除しようという。これを放任したり座視したりしては、わたしたちが自由にものを言ったり話したり書いたりすることが許されなくなってしまう。

朗読に置き換えると、もし朗読が声だけであり声だけが朗読だ、といってしまったら、手話はなんだろう。手話も言葉でありコミュニケーションでもあるのだ。聴こえる人には意外かもしれないが、声と同じくらいに手話で語る朗読もあっていい。手話もまた声と同じように自由に表現できる手段であり方法なのだ。
コスモス朗読会では聴こえる人も聴こえない人も手話がわかる人もわからない人も聴きに来てくださる。そこでどんな思いを感じたかは自由であっていい。出演者もまたいろいろな思いがあるだろう。その自由な雰囲気自由な社会を大事にしていきたい。手話も含めた、多様な表現が舞台を豊かにしていくのではないだろうか。

多様な考え、言論や表現や価値観がいまの社会に交錯している。その交錯していることが大事なのであり、もし意見があるならそれを言論で言えばいい。あなたの意見はわたしと異なるけれども、あなたが意見をいう権利も場も認めていこう。それが大事なことだ。

あらためてわたしは言う。
このような卑劣な暴力、脅迫には屈しない。気に入らないからといって力づくで排除しよう暴力で言いなりにさせようというのは、はっきり言ってテロリズムである。
自由な言論、自分と異なる考え立場を尊重しあうことが生き生きとした社会をつくっていく。
わたしは障がい者としても人間としてもキリスト者としても、卑劣な暴力、脅迫には屈しないし許さない。