力で押さえつけようとしても2014/09/05 23:13:35

平日から土曜日にかけて毎朝、『花子とアン』を妻と一緒に観ている。
いま放送されているのは日中戦争から1941年12月8日の太平洋戦争開戦前後の、社会と村岡花子一家をめぐるエピソードだ。

「ラジオのおばさん」としてラジオで子どもたちに話をする花子。だが戦争の影は花子にも及んできた。戦争賛美や軍隊のためのお話をしなくてはならなくなった花子。本当はそんな話をしたくなかったが、戦争遂行という社会の動きのなかでは、自由にものを言ったり書いたりするkとができなくなってくる。
なんと息苦しいことだろう。

政治家や権力者にとってはこういう時代はまことに都合がいい。自分たちの思い通りに人々を動かし、自分たちと反対の者は国賊、非国民とレッテルを張り排除すればいい。この国はとくに集団同調圧力がかかるとなかなか自分の意見を通せないからなおさらだ。
だがそんな強さは、なにかあるともろく壊れやすい。

花子が望んだであろう、子どもたちに夢と希望のある話をしたい、という思いは権力者からすれば握りつぶしてしまいたいほど煙たく、都合が悪いものだ。戦争遂行にとってじゃまでしかない。だからこそ力で押さえつけようとしたのだ。
けれどそんな力で押さえつけようとしても、花子にははっきり見えていたはずだ。子どもという明確な対象がいて未来をつくるのは子どもたちだということが。だからこそしなやかで揺るがない信念を抱いていたのではないか。

強い力に頼るのではなく、しなやかな強さを。
わたしも手話や朗読で力を誇るのではなくしなやかな強さをもって伝えていきたい。

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