いまになって懐かしい2014/07/07 23:17:23

都議会や国会での女性に対するやじといい、兵庫県議の涙の釈明会見といい、先日の手話サークルでも話題になった。
思うに、政治家に限らず、人の上に立つ、人を率いていく、「センセイ」と呼ばれる人のなかには、それにふさわしい見識や知識、品格を持った人がいる一方で、周囲からちやほやされ持ち上げられて、錯覚してしまう、まるで自分が世界の中心世界のすべてをコントロールしていると思い込んでしまう人も少なからずいるということだ。
そういった錯覚に陥らないためには、やはり自分を常に律していること。周囲からほめられてもどこかで「自分はそうではない」と自覚意識していること。たぶん政治家など人の上に立つ人ほど、ほんとうはたしなめいさめしかってくれる人が必要なのかもしれない。そういう人がいない人は、ワンマンになったり自分が全知全能であるかのようにふるまったりして、結局は自分を滅ぼしてしまう。

そこで思い出すのは、周囲からどうみられているか、ということだ。
わたしは小さいころ「おてんとうさまがみているよ」と厳しく言われたものだ。人がわたしを見ていなくても、天はわたしをみているのだ、と、自然を超えた大いなるもの、あるいは宗教心だけではなく怖いものがいるのだということ。

さらにはしかってくれる人がいないと、人はダメになるものだなあとも思う。
しかられるのはいやだしできればそんな目にはあいたくない。だが、ちやほやされてつけ上がってみっともない姿をさらすより、しかってくれる人がいるほうがよっぽどためになる。

この年にもなるとなかなかそうそうしかってくれる人がいなくなる。それだけ自覚と意識を忘れないように、ということだろう。
父にこっぴどくしかられた、遠い昔のことがいまになって懐かしくさえ思い出される。