洗礼を受けて30年目に読む『氷点』2014/05/19 23:21:24

今年9月27日、下北沢でひらかれる第9回コスモス朗読会。年初にあちこちで公言したり書いたりしたように、今年は『氷点』を取り上げることにした。三浦綾子さんの作品を取り上げるのは、『塩狩峠』以来2回目。
その仮台本ができあがった。手話通訳士と検討を重ねていって、できれば来月の朗読のレッスンで講師に台本を提出したいと思う。

1946年、北海道旭川。医師、辻口啓造は妻、夏枝と村井靖夫が密会中に3歳の娘、ルリ子が殺されてしまった。ルリ子の代わりに女の子がほしいとねだる妻への妬みから、わが子を殺した犯人の子として、陽子は辻口家に引き取られた。それは啓造にとっては「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉を実践するという思いでもあったが、のちのちに大きな、とりかえしのつかない事態を招く……。

ここで何度も出てくる「罪」。
たしかにわたしたちは犯罪を犯していない。でも人のこころは親しいもの同士であっても見抜く見通すことはできない。啓造が「汝の敵を愛せよ」という聖人君子のような気持ちでいたのは表向きとしても、内心は夏枝を苦しめたいという思いがあった。夏枝は陽子がルリ子を殺した佐石の子だと信じ思い込んで陽子をいじめ苦しませる。陽子は、どんなにいじめられても苦しめられても、まっすぐに生きていきたいと自らに言い聞かせていたが、自分の出生の事実を知ったのちは実母、恵子と義母、夏枝を疎むようになる。血のつながらない陽子の兄、徹は両親の不和から陽子の出生の秘密を知って、陽子に異性としての思いを寄せる……。

読み続けていくと、とても気持ちが重くなってくる。だがそれは自分のなかにもある「罪」という問題から目をそらすことになる。
人間とは何か、こう生きていきたいと思いながら、奥深いところに潜む生まれながらにしてもつ罪と向かい合っていかなくてはならないということ。
犯罪ではない、それとは違う、他人を憎むとかねたむとか疎むとか、自分を他者と比較したがったり優越感を抱いたり。

洗礼を受けて30年目に読むことで、あらためて信仰を問い直されている。いや、30年目で、愛する家族がいる節目の年だからこそ、この本を朗読で読みなさいと言われているのかもしれない。