ほんとうに重く苦しい2014/02/10 23:35:54

書こうか書くまいか、ここ数日大雪をはさんで苦悩し続けたのだが、思い切って書くことにする。
先週に発覚した「現代のベートーベン」が実はゴーストライターによるものだった、という事件だ。

たしかに今回の事件は、作曲者だと自称した彼とゴーストライターと告白した音楽大学教員にまず非難がされるべきだと思う。
しかし、それでことが解決したとか、すべて済んだというにはほど遠い。
わたしは今回の事件で深く傷ついた。彼が聴覚障がいを自称したことも、音楽を通して障がいゆえにすばらしいと称賛されたことも、そして社会の側にそういった「美談」を求めるがゆえに起きたことだ、と。それらのゆえにわたしは、聴覚障がいを自称した彼やゴーストライターを批判したり責めたり排除したりしてことが済むとは思えないし思ってもいない。

すでに社会の中では忘れられたできごとになっているけれど、数年前、北海道の夕張市で医師が聴覚に障がいがないのに、聴覚に障がいがあるように診断書を出して不正に障害者手帳を取得させた事件があった。
この事件もわたしのこころを深く傷つけたのだけれど、障がいをあたかも偽ったり利用したりする悪質さと、社会の側に障がい者を理解する、受け入れる状況がきわめて少ないことと表裏一体、どこかでつながっているのではないか、と。

幸い、妻はわたしの聞こえがろうに近いことを知っているし、難聴者やろう者、手話通訳士先生を除く、健聴者でもわたしの聞こえがどういうレベルかを知っているので、これらの事件でわたしの障がいを疑ったり不審に思ったりされたことはない。実際、おととい妻と手話の復習をしたときも、妻が発した質問を何度も聞き返したのをわかっているし、自宅にいるときは補聴器を外して耳を休ませたら、とわたしの耳を気遣ってくれる。

いまソチ五輪の真っ最中だが、終われば次はパラリンピックだ。だがどれだけ身体障がい者のスポーツ活動に理解があるだろう。パラリンピックではなくデフリンピックと呼ばれる、聴覚障がい者の五輪大会があるのを知っている人がどれだけいるだろう?
その一方でテレビドラマや映画では、障がい者ががんばっただのすばらしい活動をしただのといった話が取り上げられる。
先日のスーパーボウルに出場したシアトル・シーホークスのデリック・コールマンの話もそうだ。たしかに彼らの努力や活動はわたしも勇気と希望を抱く。
けれどそれは彼らにとってもわたしにとっても、美談にしてほしいからではなく、普通にありのままに生きてきた上でのことだ。
それを美談にするのは、障がいのない人たちや社会の側の、勝手な願望や押しつけではないのか?

「現代のベートーベン」事件はほんとうに重く苦しい。
だが彼らを責めたり批判したりするだけに終わらせるのなら、彼らに非を押しつけただけに過ぎない。
根っこにある、社会の側の障がい者観、障がい観、ひいては障がいのない人たちの意識や障がい者とどうかかわっていきたいのかという問題や行動が変わること。
それなくしては、この重苦しい事件から得るべきものはなにひとつない。

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