「ゆるし」と「受け入れ」、和解のために2013/10/03 22:09:42

ついぞ放送終了まで観ることがなかった秋のテレビドラマのなかのひとつ、『半沢直樹』。どちらかというと朝ドラマの『あまちゃん』のほうをよく観ていた。『あまちゃん』の前作『純と愛』があまりにも観たいと思える作品ではなかったこともあったからか、はたまた妻と毎朝出かける直前まで放送していたからか。妻は化粧をしながら、わたしは着替えの合間にちらちらと。薬師丸ひろ子さんが恐ろしく歌が下手な女優さんとして描かれているのにはショックだったけどね。実際の薬師丸さんはヒット曲もある、とても歌がうまい女優さんだ。

『半沢直樹』に話を戻す。
この原作となった2つの小説も実は読んだことがない。しかしドラマのなかで使われた「倍返し」という言葉がブームになったことくらいはわたしでもわかる。
でも、いささかへきえきしている。はっきり言ってしまうと、この言葉が流行語やブームになるほど、いまのわたしたち日本の社会はどこか殺伐としているのかなという、暗たんたる気持ちにもさせられた。

先日参加した、小学校の同窓会。
わたしをいじめていた仲間もいた。顔を会わせても誰だかわからない同級生もいた。会場に入って、そのいじめた仲間のひとりから手をひっぱられて畳の上で漫才のようにわざとこけてみせて「引っ張るなぁ!」と声を大にしたけれど、本気で怒るようなまねはしない。恩師や仲間は腹を抱えて笑っていたようで、それがうれしいくらいだ。
30年以上たってわたしをいじめていた彼らに「倍返し」をしたいとはつゆほども思っていなかったし、いまもこれからももちろん思っていない。
もっと言ってしまうと、「倍返し」したところで何の意味があるのだろう、とさえ思う。

クリスチャンとしては「ゆるし」と「受け入れ」、ひいては和解だ。「倍返し」復しゅうがあるとしてもそれは神さまのなさること。
そういってしまえばそれまでなのだけど、ゆるしにしても受け入れるにしても、それなりの苦しみや時間がかかる。どんなに時間がたっても受け入れられないということもあるだろうし、いじめた側にしてみれば、そんなことでいつまでもねちねちといわれたくないという思いもあるだろう。

でもいじめられた側にとっては、傷はいつまでたってもうずくし、苦しめられる。
だからこそ、いじめた側に恥ずかしくない、人間として自分をおとしめない辱めない生き方をしていくことが大事なのではないだろうか。
「倍返し」という流行語ができたからか、いじめには倍返しでやってやれ、という親がいるらしい。それこそ何の解決にもならないどころか、復しゅうと憎しみの再生産だ。
クリスチャンとして、いじめられた苦しみつらさは一生消えないけれど、それを神さまにまるごと預けて、わたしはいじめられた、差別され尊厳を傷つけられた経験があるからこそ、いじめた側にもそれ以外の人たちにも恥ずかしくない、堂々とした生き方人生を遺したい、と思う。
それこそが「ゆるし」と「受け入れ」、和解であり、「倍返し」なんかよりずっとはるかに意味のあるものだ。