不可能ではないとわたしは信じる2013/10/01 21:17:17

今日から10月。つい半年前に結婚式を挙げたばかりとは思えないほど、時間のたつ速さをつくづく実感させられている。

今日、修理に出している補聴器がこの週末の6日に戻ってくるという連絡があった。
前日は朗読の今年最後のクラスがある。ほとんど聴こえない中で聞くのはしんどいけれど、もう少しの辛抱だ。

浦安教会でスクリーンに説教や讃美歌、交読詩編などをパソコンを通して映してくださるようになってずいぶん楽になった。
楽になったけれど、ほとんど聴こえない状態では、説教はスクリーンに映った文字を読めばいいだけで、声をあげることがないからいい。ところが会衆と一緒に歌ったり読んだりする讃美歌や交読詩編の場合は、いまどこを歌っているのか、何番目を歌っているのか、といったことがわからない。わからないからへんに間違って声をあげてもよくないどころかおかしなやつとしかみられないかもしれない。それがいやで、結局、讃美歌や交読詩編の終わりまで黙ったまま立ったまま。これほど苦痛はない。言葉が分からないのならまだ仕方ないと思うが、同じ日本語を使えるなかで、こういう状況に置かれるのはとても苦痛だ。

教会に提案として、レーザーポイントを使ってほしい、説教はともかく、讃美歌や交読詩編のときに、いまどこを歌っているのか祈っているのかわかるようにしてほしい、と牧師に伝えている。

外国の場合はどうなのか寡聞にして知らないのだけれど、日本のキリスト教会は、聴こえない人への情報保障や受け入れ態勢という点で、進んでいるところとそうではないところの差がありすぎる。
わたしは30年以上を日本基督教団の教会で育ってきた。
他教派の中では聴覚障がい者に対する取り組みに熱心なところもあるが、日本基督教団が、障がい者に対してひらかれた教会を多くつくってほしいと思うからこそ、牧師や教会にいろいろ提案をしたいと思う。たったひとりだけ聴こえない信徒がいる、浦安教会から、日本基督教団が変わっていくのは難しいかもしれないけれど、主イエスがともにおられるのなら、不可能ではないとわたしは信じる。