たいまつのような存在でありたい2013/09/10 22:34:54

五輪開催地に決まって、さっそく案の定、社会は「五輪バンザイ」とお祝い一色になってきた。7年後に選手となるかもしれない若い世代にインタビューをしたり、1964年の東京五輪経験者らの思いをきいたり、施設建設予定地を取り上げたりしている。
街の人の声も「これで財布が少しはゆるむかもね」などと笑顔で語る人もいる。

だがわたしは、そんな雰囲気から一歩ひいて、シニカルというか冷ややかな目でみている。

文春ジブリ文庫に『腰抜け愛国談義』という作品がある。著者は日本近現代史に詳しい、半藤一利さんと『耳をすませば』、最新作の『風立ちぬ』で引退を発表したアニメーション作家の宮崎駿さんだ。  

  《若い人たちはやたら「不安だ、不安だ」と言うんですが、
 ぼくは「健康で働く気があれば大丈夫。それしかないだろう」
 と言い返しています。「不安がるのが流行っているけど、流
 行に乗っても愚かなる大衆になるだけだからやめなさい」と。
  「不安なときは楽天的になって、みんなが楽天的なときは
 不安になれ」とね。よくわかんないけど(笑)》

宮崎さんはこう語っている。とてもよく理解できるね、いまなら。

五輪が決まったのはいいけれど、昨日も書いたように課題山積だ。とてもバンザイともろ手を挙げて言える状況ではない。1964年当時とは時代も社会もまるで異なる。
キリスト者のわたしは、こういう時代状況の中でどうしたらいいのだろう。
宮崎さんが語っておられるように、「みんなが楽天的なときは不安になれ」と。世の中の動きをしっかりみつめ、おかしい時はおかしいと声を上げる、たいまつのような存在でありたい。