目をつぶりなかったことにしてはいけない2013/08/21 23:08:08

これを書いているいま、外では雷が鳴っている。時おり「ドーン」という音響も体感できる。

このあいだ、自宅に手話通訳士先生をお招きして、歌番組を妻と一緒に観ながら、昔の歌を思い出したり、その歌がはやったころわたしは何歳だったか、どんな時代だったかを語って、妻や先生が驚いたりあきれたりした。

時代はやや下るけれど、小学校4年生から6年生まで、むさぼるようにして読んだマンガのひとつが『はだしのゲン』だった。
昨年12月に作者の中沢啓治さんがお亡くなりになられた。そしてここ数日、松江市と鳥取市の小学校の図書館でこの『はだしのゲン』を閲覧禁止にしよう、という動きがニュースになっている。

わたしの意見結論を言うと、閲覧禁止はもってのほか、である。
こんなことを言い出すのは教育委員会の横やり、ひいては臭いものにふた、という考えがあるからだろう。

閲覧禁止にした理由は、残酷な場面がある、子どもに刺激が強いから、という。
だが中沢さんが体験された原爆と投下後の惨状は、どんなに言葉を尽くしても表現できないほどのむごたらしさだったという。中沢さんご自身、迷ったけれども、事実を事実として伝えなくてはならない、と意を決して描いたという。

少しずれるけれど、魚や生き物を殺すというとき、周囲から「残酷だ」「生き物をそまつにしている」といった意見が出ることがある。
けれど、どう考えても、たとえば魚をさばく、捕ったばかりの生き物を殺さなくては、食べられないということになろう。それでも残酷だといえるのか。
わたしは高校時代、豚の解体処理に立ちあったことがある。
豚も自分の運命を知っているのか、猛烈に暴れて逃げ出そうとする。それを必死に押さえなくてはならない。
たしかに生き物を殺すのは残酷かもしれない。だがそれをへて、わたしたちは生きている。生かされている、と。

マンガとこれらを同じレベルで考えるのは理に合わないという意見もあるだろう。
だが、実際にあったこと、言い表せない惨状があったということに目をつぶって、あたかもなかったかのように、子どもたちに触れさせないようにするというのは、大人たち、教育委員会や政治家のエゴであり身勝手ではないだろうか。

アウシュビッツも見てきたし、アンネ・フランクの記念館も行ってきたわたしは、過去に目を向けずにのうのうと生きるわけにはいかない。

『はだしのゲン』閲覧や制限、禁止に、声を大にして反対である。