へびのように賢く、鳩のようにすなおに2013/08/01 22:49:52

卓球練習で妻に新しい技術を教えたり打ち合いをしたりと、共通の楽しみを見いだしている。
終わって自宅に帰って、先週つくったカレーの残りと、パスタを組み合わせてパスタカレーをつくってみた。

「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった」

ナチス発言、苦しい弁明 麻生氏周辺「単なる言い違い」
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201308010334.html

ある意味、麻生氏は絶妙なタイミングで警告を発したとも言える。
いつのまにか、世論や人々の意見に流されて、いつのまにか民主主義ではなく、社会や民衆を抑圧する政治体制、社会が出来上がっていくのではないかと。

ある意味、わたしたちに注意深くなりなさいよと、逆説的ながら警告しているかもしれない。

「へびのように賢く、鳩のようにすなおに」(マタイ10章16節)という聖書の言葉を思い出した。

自民党のなかにもリベラル的な立場の人が少なからずいる。同党の議員すべてが麻生氏と同じ考えでいるのではない。
だが、国際的には安倍首相、今回の麻生氏の発言で、日本の政治家は口が軽く、思いつきやその場での雰囲気で重大なことを言うのではないか、さらには過去や歴史について学ぶとか知識をもつということに欠けているのではないか、というふうにみられているのだろう。

それにしてもだ。
言動を撤回するくらいならはじめから口にしないことだ。

昔からあったことだけど2013/08/02 22:34:18

ネット依存の中高生、全国に52万人 PCやスマホ没頭
http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201308010287.html

こういう話はいまになってあったことではなく、昔からよくあった。
たとえばわたしがまだ聴こえていたころ、ウォークマンを聴いて音楽に没頭していたり、ファミコンやらテレビゲームやら徹夜でやっていたり、という具合にだ。
ニュース性がないように思えるかもしれないが、しかしやっぱりネット依存というのは大きな問題だと思う。

それに対する専門家の意見も、昔から言われていることとそんなに変わりない。いわく「スポーツなど、ネット以外の楽しみをもつこと」というように。

けれどふと立ち止まって考えてしまう。
先月に広島であった、少女を7人もの同世代の少女と成人男性が殺害して山中に捨てたという事件は、「LINE」というスマートフォンのネットワークで結ばれた者が起こした事件だった。被害者も加害者も「LINE」を使ってやりとりをし、加害者の中には実生活ではなく「LINE」上でしか会ったことのない、逮捕されて初めて会った者もいた。
いまの若い人は他者から承認されたいという願望が強いそうだ。インターネットでしか人間関係をつくることができない、という人もいる。
そういった「空想」でしか人間関係を築けないのが、ネット依存の大きな問題ではないだろうか。

「キラキラネーム」で患者取り違えの恐れ? 救命医のツイッター苦言に賛否両論
http://news.livedoor.com/article/detail/7916483/

昨年、手話サークルの学習会で、読み名を漢字であてて表す、という命名が話題に出た。
「宇宙」と書いて「そら」と読む、などの例を挙げたら、年配者から「え、なにそれ」と、驚嘆ともあきれともつかない声が出た。

個人的意見を言えば、わたしも「キラキラネーム」「DQN」と呼ばれる、昨今の子どもにつけられた名前には違和感を隠せない。将来子どもが成長して名前の由来を聞かれたときどう、親は答えるのか。まさか読みの発音がいいから、と答えるのだろうか。それで子どもは納得するのだろうか。つけられた名前は一生ついてまわる。失礼ながら親の感性や知性を問われる場合もあるだろう。

『和文通話表』というのが出てきて思い出した。
アマチュア無線をやっていたころに覚えていたのが、氏名や単語をアナウンスするとき、説明がすぐにできない場合に一字ずつ伝えるやりかただ。たとえば「あさひのあ」「いろはのい」「さくらのさ」というように。
すっかり死語になっていたかと思っていたが、いまでも使われているんだねえ。
これを使えば、まあ伝わらないことはないだろう。

でもやっぱりへんなネームをつけるのがそもそもの問題のはじめだ。
どうしてもわたしくらいの年齢には理解しがたいねえ。

友人の1周年追悼記念会2013/08/03 23:10:19

昨年の夏に、予期せぬ水の事故で、二人の友人を天国に送った。

この8月2日で1周年になろうとしている。元気だった二人があっと言う間に、この世を去った。あの信じられない出来事から、はや1年経とうとしている。あっと言う間だった気もするし、随分昔のような気もする。

明日の午後(8月4日)に、墓地礼拝と1周年記念合同礼拝が、プロテスタント教会で持たれる。
残された家族は、愛する妻を、愛する夫を、愛する母親を、愛する父親を突然、喪失する辛さを、それぞれに受けたこの1年間だったと思う。

私もこの1年間、彼女達のいない現実を受け止めるのに、抵抗を感じて辛い思いをした。今も時々、空から懐かしい彼らの声が聞こえる時がある。以前と変わらぬ声で、私の名前を呼んでくれる。
魂に語りかける声があるなら、その声を忘れたくない。

私もいつか、天国に帰るときがくる。その時には、ずっと傍にいてその声を聞くことができるだろう・・・

明日の礼拝に多くの方が集い、涙する場面が沢山あるだろう。
私はその場に立ち会えないけど、同じ哀悼の意を持って過ごしたい。

新しい家族ができた今は、遺族の辛さがよく理解できるようになった。
神様の慰めと癒しがあるように祈りつつ・・・

だからこそ2013/08/03 23:28:08

8月最初の「朗読のレッスン」ご指導をいただいた。
休暇など事情がおありなのだろう、何人か欠席された方がいらっしゃったけれど、ほとんどの受講生が顔を出した。

わたしはセリフ部分を、感情を入れすぎないようにとアドバイスをいただいた。その一方で顔やからだの動きで表現するように注意したい。

手話訳がおおむねできていたからだろう、台本に目を通すことなく読むことができた。
もっともっと読みこなし、手話も表現をたしかなものにしたい。

妻が一年前に事故で親しい人を失ったことを書いていたが、今日の手話サークル前に、数年前に脳梗塞で倒れたままお会いしていなかった手話サークル立ち上げ時からの古参メンバーが先月亡くなったときかされた。サークルで細かい手話表現を教えていただいたことが、つい昨日のことのように思い出される。
実は朗読でも、毎年舞台に立っていた受講生がこの春に亡くなった。心臓発作だったそうだ。

わたしもいずれはこの世を去らなくてはならないときがくる。
だからこそ、生きているあいだに何をしたかしなかったかが問われる。

このからだでなにかしら、生きたあかしというか、生きてきたといえるものを遺したいと強く思う。

天国に帰ったときに恥ずかしくない歩みだった、といえるように。

妻の思いに気づかない夫、思いを伝えられずに苦しんでいる妻2013/08/04 22:50:06

結婚して2カ月が過ぎた。まだまだ夫婦としてはひよっこというか駆け出し同然なのだが――今日、ふたりで今年映画2本目、「31年目の夫婦げんか」を観てきた。

メリル・ストリープ、日本でテレビコマーシャルにも出演しているトミー・リー・ジョーンズ……ともにアカデミー賞受賞歴もあるベテラン俳優ふたりがダブル主演キャストで、すきま風ができた長年連れ添った夫婦、もう一度やり直したいという妻とそれに反してかたくなな態度をとる夫を演じた。

250席近い客席の70%は、結婚したばかりか恋人か、また映画同様に熟年夫婦とおぼしき人たちが多かった。単身で観に来た男性もいたが、どんな思いを感じたのだろう。

オープニング冒頭シーンでストリープ演じるケイが水色の下着姿でアーノルド(トミー・リー・ジョーンズ)にセックスをせがむ場面。女性としてはかなり勇気がいる心境だろうし、演じるストリープも同様だろう。老いたからだをさらすのはもちろんのこと、ベッドシーンを演じるのはへたするといやらしさと醜悪なだけでしかない。けれどセックスが主題ではなく、夫婦の絆を取り戻すというのが主題だから、老いた夫婦のセックスシーンはけっしていやらしくはない。

トミー・リー・ジョーンズも、ガンコでかたくなな夫をリアルに演じている。これだけしてやったのだからもういいだろう、と上から目線でケイに言うあたり、なるほどとおもわず納得してしまった。そしてセックスシーンで妻をみた瞬間、性欲が衰えてしまうというのも。

繰り返すけど、あくまでもこれは夫婦のきずなが主題だ。
日本でもおそらく、熟年夫婦だけではなく結婚して数年目の夫婦にも、ケイ、アーノルド夫婦と同じようにすれちがいやすきま風がおきているのではないだろうか。
劇中同様にセックスを入り口にセラピーをするのはたぶん日本でなら気恥ずかしさとためらいが強いだろうからそのまま導入することはできないかもしれない。しかし、妻の思いに気づかない夫、思いを伝えられずに苦しんでいる妻。カウンセリングを通してカウンセラー、バーナード・フェルド医師(スティーヴ・カレル)の前で口論をはじめてしまった。
そこからどう立ち直ったかは、映画を見てのお楽しみである。

恥ずかしいことに、映画を見た帰り、けんかをしてしまった。
暑い一日だったのでアイスクリームを買ったら「いらない」と妻から厳しく怒られた。怒りはしばらく収まらず、謝ったのち、部屋を掃除したり家事を手伝ったり、機嫌取りではなく、誠意を尽くしてやっとゆるしてもらえた。

買い求めた映画パンフレットには、夫婦・家族コンサルタントの池内ひろ美さんの「夫婦げんかのすすめ」というコラムがあった。
わたしたち夫婦は、どうだろう。31年後といえば80歳が目前だ。そのころ、きちんと思いを言い合えるだろうか。すきま風が吹いていないだろうか。

映画「31年目の夫婦げんか」を見て2013/08/04 23:11:26

「31年目の夫婦げんか」
ハリウッド映画の実力派俳優達の渋い演技で、夫婦の破局と危機をどう乗り越えていくかがテーマである。

まだ結婚生活3ヶ月目の私とは、30年のベテラン結婚生活は、程遠く感じる。カウンセリングの世界が、身近に存在するアメリカならではの舞台である。
夫婦の倦怠期や月日により、色あせていくお互いへの関心度や、冷めた愛情が、リアルに描かれているのが、見ごたえがあって素晴らしい。日本でも、このような状況のカップルは沢山いるのだろうが、他人に夫婦の事を相談するのは、日本では馴染みがない。
相談できずに、独りで悩みをかかえ、離婚という結果を出す人が多いようだ。

その点、アメリカはオープンに家庭の事情や夫婦関係を、カウンセラーに相談する。
きっと、そういう風に硬直した関係に、新しい風が吹くと、お互いを見直したり、自分の事を客観的に見られるのかもしれない。
それで、夫婦関係が再生するなら、日本にもそういう制度や、機会が増えればいいなって思う。

男性と女性の違い2013/08/05 23:36:27

仕事を終えて妻と合流、都内で旅行などの相談をしてから自宅へ帰る途中にスーパーマーケットへ立ち寄って買い物をすませる。

こういうときは男性と女性の違いがもろに現れておもしろい。
男性はみたまま感じたままで商品を手にするが、女性はいろいろえり好みをしたり品定めをしたりして買う。よく言われることだけど女性のショッピングに男性がつきあいたがらない理由は、あちこちと振り回されるのが苦痛だからである。

わたしも例外ではなく、ついつい妻とのショッピングでは「パッパッと決められないの!」と内心怒りをわきおこしたくなる。
でもそう思いつつ怒りを表してはかえってけんかになる。昨日のけんかも実は、サービス精神とありがた迷惑が紙一重になっておきたことだった。

黙ってわたしは商品を持参したバッグに詰めて、重いけれど自宅まで持って帰った。

そういう、男性にはわかりにくい部分を知っていくのも、楽しみである。

ゲリラ豪雨に驚かされた2013/08/06 23:14:10

突然のゲリラ豪雨に、驚かされた。

けさ出勤途中、8時20分ごろだろうか。
くもり空になっていきなり、ものすごい雨が降ってきた。新橋駅で用事のため下車すると、地面こそ濡れているが何事もなかったかのよう。
こんな不安定な天気はいつまで続くんだろう。

手話つき朗読舞台と、サークルの納涼会のパフォーマンスのための手話訳づくりを夜に行った。
妻と一緒に手話通訳士から指導を受ける。
考えを出し合ったり細かい表現のチェックを受けたり、充実したひとときだった。

明日はまた暑くなりそうだ。熱中症などに気をつけたい。

ほんとうに「立秋」?2013/08/07 22:27:50

昨日までそんなに暑さを感じなかったのが、今日は日本各地で30℃を超すところが続出した。東京も例外ではなく、わたしは仕事のために外に出て「暑いよぉ」とつぶやいてしまった。今日は「立秋」。

今月、実家からわたしの両親が東京にやってくる。結婚してからは初めてのことだ。
ここで悩むのが、両親が泊まる部屋に冷房を入れるかどうかという問題。
妻は「クーラーがあるから大丈夫」というが、高齢者にクーラーはかえってからだを冷やしてしまうなど、よくないと感じる。むしろ扇風機の静かな風のほうが、負担がかからなくていいのではないだろうか。わたしたちはともかく高齢者は、体温を感じる機能が低くなっている場合もあるので、わたしたちを基準に考えるべきではない。

ニュースではこの10日ほどは暑さが続くそうだ。
ご高齢の方がいらっしゃる家族はもちろんのこと、単身高齢者にとっても厳しい、今年の夏である。

「ムキになって」ではなく「忍耐強く」2013/08/08 22:03:15

卓球練習。
ついつい、よけいなこととは思いつつ、一生懸命になって妻を相手に技術などを教えた。妻いわく「ムキになって」。

妻だからいいけれど、しかしあらためて感じるのは、人に教えるということの難しさだ。

いくらこちらが熱意があり、一生懸命になっても、またそう思っていても、相手がそう受け取っていなかったらただの押しつけ、強要でしかない。
かえって逆効果になるだけでしかない。昨日はわたしの一生懸命さに妻が不機嫌になり、途中で何度か休憩を入れた。

ふりかえって学生時代や難聴者協会で卓球を教えてもらったときのことを思い出す。
へたくそなわたしに熱心に教えてくれた人たちは、それこそ本気でいろいろ教えてくれた。さじを投げたいときもあっただろうしやめたいと思ったこともあるだろう。でもそうはせずに教えてくれた。

自分の経験からも感じることは、教えるということは忍耐が必要だということだ。がまん強く、忍耐強く教える。
体罰や暴力は指導者の能力のなさの証明であり、教える人のとるべき態度ではないというが、ほんとうにそのとおりだ。教えるのなら相手に対する尊敬がなくてはならない。力ずくで抑え込んで、いっときは成功するかもしれないが、長い目で見れば信頼も尊敬も得られないどころか「二度と教わりたくない」といわれるだろう。そんなコーチや教師はわたしもいやだった。

本気で妻と一緒にやりたいからこそ、わたしはもっと忍耐強くならなくては。