できないこと できること2013/04/04 23:21:17

今日はコミュニケーションで二つの出来事があった。

まずはじめにあったこと。
調べ物をして聴者に説明をしなくてはならなかったそのとき、相手は左側に位置している。だがわたしは左からの音はほとんど聴こえない。聴こえていないのに返事をしてかえって誤解を招いたりその時しのぎのわかったふりをしたりするのはいやだった。相手の左側にからだを置けばよかったのだけれど、そのさらに左にも人がいて、かえって迷惑になってもいけない。
というわけで、わたしは右耳を相手に向けていた。
わたしは左耳は補聴器をつけてもほとんど聴こえないこと、太鼓に手を当ててたたく振動でかすかにわかる程度のようなものであると説明、残った右耳も補聴器を外すと全く聞こえないことを説明した。


そのあと、婚約者と別の聴者と会食をする機会があった。
聴者ばかりのなかで話を聞きとるのは、ほんとうに疲れる。聴者に顔を向けても聞き取れない。手話を学んでまだ半年にもならない婚約者が、片言ながら手話で通訳というか話をわたしに説明してくれた。聴者にではなく婚約者に顔と耳を向けて全神経を集中させていた。どうしてもわたしには聞き取れないから、手話ができる人のほうへ身を向けざるをえない。

婚約者とのことは、また難しい問題を含んでいる。
いまはまだいいけれど、婚約者がだんだん手話が上達してきて本格的な通訳者レベルになったとする。そのとき、わたしの通訳をお願いしていいのだろうか? 家族であり身内なのだから当然、ですむ問題ではない。手話を使うのは、その目的意味づけは、妻としてなのか、通訳者としてなのか。善意に甘えてはいけない。かえって通訳を期待してしまうことが、彼女にとって負担になったり不満になったり、へたをすると「わたしはあなたのために手話を学んだけれど、あなたの通訳ではない」と抗議を受けるかもしれない。

聴こえる者と聴こえない者が一緒に暮らすというのは、そういう難しい問題をひきおこしかねない。

はじめの話のときは、わたしが右耳を向けたことに一瞬相手が驚いたけど、きちんと説明したら納得してくれた。
あとの話はこじれるとやっかいな問題である。さきに書いたようにあとあとまで悪い影響が出るリスクがある。
ただひとつ、言えることは、たとえ通訳をしてくれたとしても、家族としてこころから深い感謝を絶やさないこと。

できないことは悪いことではない。不便なのはしかたない。でも聴こえないことは不幸ではない。
できないことがある代わりに、できることを妻のためにこれからもやり続けていくことでしか、こたえるすべがない。