不便さということは大事なこと ― 2012/09/21 23:42:40
昨日、ケータイやスマホやパソコンのメールを使うことで文字を書くことがめんどうになったとか字を書く力が衰えたとかいう声があったということを書いた。
わたしはもう電話がまったく聞こえないため、職場でも自宅でもメールしか連絡手段がない。社会人になりたてのころは職場にあったファクスさえ、あまり使わせてもらえなかった。
だが、ケータイがなかったころをふりかえってみると、それはそれでまた楽しくもあった。
思い出したのはわたしが小学校2年生だったか3年生だったかのころの、あるできごとだ。
札幌にある、三越デパートで母と一緒に、父と待ち合わせの予定でいた。ところがいくらたっても待てど暮らせど、父がやってこない。
その日はあいにく気温が低く寒い冬だったから、なおさら身にこたえた。
しょうがないから、時間を過ぎても来ないのを確かめてから自宅に帰ったら、なんと父が家にいたのだ。
あっけにとられていきさつを聞いてみると……。
父も時間通りに三越デパートにいた。だがいたのは三越のシンボルであるライオン銅像をはさんで角の反対側。
つまりライオン銅像をはさんでお互い、相手がいることに気づいていなかったのだ。話を聞いて怒る気力がわくどころか、おかしくて笑い転げてしまった。
もしあのころにケータイがあったら、もちろん一発で連絡がとれたに違いない。ムスコであるわたしに、デパートの反対側に向かわせて探させることもできただろうが、子どもだからどんな目に遭うかわからない、と母は判断したのかもしれない。
いまはなんでも一発で簡単にすませることができるから便利なようにみえるけど、だからこそ不便さということが身をもって体験しにくい、理解できない時代なのだともいえる。
昔見たドラマ「君の名は」は数寄屋橋で待ち合わせのシーンが有名だね。
真知子と春樹が不都合が起きて会えない。「会えそうで会えない」というシチュエーションは、若い人には理解できないだろうなあ。ケータイで連絡をとればいいのに、と思う人もいるだろう。
でもあの時代どころかケータイがなかったのはつい20年ほど前、つい最近までそうだったのだ。
いまではあたりまえになってしまったからこそ、もどかしかったりイライラしたり、というできごとの裏側にある不便さ、ひいてはすぐに会えないからこそお互いを思いやりいたわり愛しあうということを、じっくり考えてみたいと思う。
わたしはもう電話がまったく聞こえないため、職場でも自宅でもメールしか連絡手段がない。社会人になりたてのころは職場にあったファクスさえ、あまり使わせてもらえなかった。
だが、ケータイがなかったころをふりかえってみると、それはそれでまた楽しくもあった。
思い出したのはわたしが小学校2年生だったか3年生だったかのころの、あるできごとだ。
札幌にある、三越デパートで母と一緒に、父と待ち合わせの予定でいた。ところがいくらたっても待てど暮らせど、父がやってこない。
その日はあいにく気温が低く寒い冬だったから、なおさら身にこたえた。
しょうがないから、時間を過ぎても来ないのを確かめてから自宅に帰ったら、なんと父が家にいたのだ。
あっけにとられていきさつを聞いてみると……。
父も時間通りに三越デパートにいた。だがいたのは三越のシンボルであるライオン銅像をはさんで角の反対側。
つまりライオン銅像をはさんでお互い、相手がいることに気づいていなかったのだ。話を聞いて怒る気力がわくどころか、おかしくて笑い転げてしまった。
もしあのころにケータイがあったら、もちろん一発で連絡がとれたに違いない。ムスコであるわたしに、デパートの反対側に向かわせて探させることもできただろうが、子どもだからどんな目に遭うかわからない、と母は判断したのかもしれない。
いまはなんでも一発で簡単にすませることができるから便利なようにみえるけど、だからこそ不便さということが身をもって体験しにくい、理解できない時代なのだともいえる。
昔見たドラマ「君の名は」は数寄屋橋で待ち合わせのシーンが有名だね。
真知子と春樹が不都合が起きて会えない。「会えそうで会えない」というシチュエーションは、若い人には理解できないだろうなあ。ケータイで連絡をとればいいのに、と思う人もいるだろう。
でもあの時代どころかケータイがなかったのはつい20年ほど前、つい最近までそうだったのだ。
いまではあたりまえになってしまったからこそ、もどかしかったりイライラしたり、というできごとの裏側にある不便さ、ひいてはすぐに会えないからこそお互いを思いやりいたわり愛しあうということを、じっくり考えてみたいと思う。
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