尊敬や謙虚さを失わないことが文化をすすめていく2012/07/27 20:31:14

橋下市長「人間は見えなくていい」と疑問
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20120727-990191.html

記事では文楽についても説明がなされている。
それによれば、文楽は、三味線奏者と人形遣い、物語を読み上げる太夫(たゆう)で構成。主役級の人形は3人で操られ、顔と右手の動きを担う「主遣い(おもづかい)」は顔を出し、ほかの2人は顔や姿が目立たないように黒子の衣装を着るのが一般的だ。

文楽協会によると、もともと人形遣いは全員が黒子だったが、太夫や三味線奏者の姿が見えていることに合わせ、ある時期から主遣いだけの顔を見せるようになった。ただ詳しい由来は分かっていないという。

市長は「重鎮の言うことに若手が何も言えない(文楽の)構造を変えないといけない。顔が見えると(作品の世界に)どうも入っていけない」と述べた、という。

これに対して識者などからはこんな意見が出ている。

「文楽には形式があって、それを踏襲しているのでそもそも『演出』がない。(中略)橋下市長の発言は。文楽を知っている人が聞いたら、目を白黒させるし、いまさら言われる筋合いはない」
                (雑誌「上方芸能」発行人 木津川計さん)

市長は「曽根崎心中」の脚本の歴史などについてよくご存じでないようだ。何でも新しいものを取り入れて、たくさん変えればいいというのは、どうかと思う」
       (三味線奏者の鶴沢藤蔵さん。いずれも同日付日刊スポーツ紙面から)
                          
今日のある新聞の夕刊に狂言について、野村萬斎さんの一文があった。

彼によれば狂言は「セルフ・メード・サウンド・エフェクト」。音響は役者自らが発する。駆使するのはオノマトペだという。こんな具合だ。

茶わんを割る音「ガラリ、チーン」は茶わんを割るしぐさのあとに割れる音で「ガラリ」、「チーン」が破片が飛び散った音。

おもしろかったのは「コカー、コカー、コカー(子か、子か、子か)と鳴くカラスに、「チチ、チチ」(父、父)と鳴くスズメ。はたから聞いているとまるで「子か父か」とカン違いする。太郎冠者が親子とカン違いするというナンセンスギャグのような曲が狂言にあるのだそうだ。

狂言と文楽では違う、といわれるかもしれない。

でも共通しているのは、長い歴史と伝統の上に、演じること表現することを追い求めてきたということ。

一面的な目で文化や芸能を批判するのはどうかな。橋下市長にはそのへんの視野が足りないように思える。芸術や文化やそれを支えてきた人たちへの敬意に欠ける、とわたしは思う。誤解を恐れずにはっきり言ってしまうと傲慢でさえあると。

年長者はただ年が上だからと言ってなんでもかんでも自分の思い通りにしたいと、教えているわけではないだろう。もちろんそんな勘違いをしている師匠もいるかもしれないが、そんな人からは学ぶものなどない。教わる人が教える人に対して敬意と尊敬を持って教わるのと同じく、教える人も教わる人に対する敬意があるべきだし、あるからこそ、長年自分が培ってきた技術や考え方を弟子に教えるのだ。

教えるということは押しつけることではない。次世代に受け継いでほしいとともに、新しい時代に適応できるように、次世代の人たちにオリジナルなものをつくっていける道筋をつくることでもある。

時代の変化に伴い、変わっていかなければならないこと、変えていかなければならないこともある。それはどんなジャンルにも存在する。

伝統や歴史に固執しすぎても時代から取り残されるかもしれない。しかし昔から、伝統や文化の変化や発展はあったし、これからもあるだろう。

一政治家がとやかく言う前に、謙虚になって芸能や文化をみつめていくこと。それなくしては発展しない。

そう、文化や芸能に対して尊敬や謙虚さを失わない人たちがいたからこそ、伝統や歴史たりえるのだ。