不愉快を通り越して怒りを感じさせる2012/06/11 23:46:47

昨日大阪・心斎橋で起きた、通り魔事件。
実に不愉快を通り越して怒りを感じさせる事件だ。

「誰でもよかった」といって自分を正当化し、他人の、それも見ず知らずの人の人生を一方的に断ち切った、その想像力のなさと愚かさに、ただただ怒りを覚える。
だからといって大阪府知事が「死にたいなら自分で死ね」と発言したのにもあきれる。
感情はわかるが、公人、知事という立場で言っていい発言ではない。自殺者が年3万人を超す昨今、自殺者をいかに少なくするか、政府も民間も取り組んでいるのだ。今日は首都圏で3件も鉄道の人身事故が起きた。自殺を奨励する意図はないかもしれないが、知事として以前に人間として、どう考えているのかと疑問を感じさせる。

こういった一見、民衆のこころにストンと理解されやすそうなことを政治家が平気で言う神経、そしてそれをあたかも正しいかのように受け止めてしまうわたしたちのこころが恐ろしい。

苦境を乗り越えていく、希望を描いている2012/06/12 00:57:36

『Soul Surfer』パンフレット
映画『Soul Surfer』公式サイト    http://disney-studio.jp/movies/soulsurfer/

実在する、女性サーファーを描いた作品『Soul Surfer』を、仕事のあとに観てきた。

サメに片腕を食べられてしまい、さらに血液の60㌫を失いながらも一命をとりとめ、その事故から一ヵ月後にはサーフィンに戻ってきた少女、ベサニー・ハミルトン。
その事故から、全米選手権に出場するまでを描いた作品は、同じ障がい者としても、キリスト者としても、とても強い影響を受けた。

障がいということではわたしの聴覚障がいと、ベサニー・ハミルトンの肢体不自由は異なる。だが障がいは不便ではあっても不幸ではない。たしかに食事を運んだりギターを弾いたりするのには、片手ではバランスがとれなかったりうまく弾けなかったりするかもしれない。

けれども障がいがあることで生きる意味、ひいては「誰かが希望を見いだす手助け」になること。しかしその前にしっかりと神さまをみつめて祈り、神さまにゆだねている。家族全員がともに祈り、神さまをみつめ委ねている。その強さにうたれた。この作品はベサニーひとりを描いたのではなく、ベサニーを通して、信仰、家族が苦境を乗り越えていく、希望を描いているともいえる。

パンフレットにあった、ベサニーの言葉から。
「いちばん大切なことは、どんな心を持っているのか。そして他人とどのように関わることができるかということ」

この映画にはサーフィンシーンが何度も出てくる。そのシーンのリアルな迫力はさすがだ。

もうひとつ、出演者のなかに魅力的な俳優がいた。
デニス・クエイド――1954年4月9日生まれ。
1988年の『熱き愛に時は流れて』でプロフットボール選手を演じた彼は、『オールド・ルーキー』(2002)では高校教師からマイナーリーグをへてメジャーリーグに出たジム・モリスを演じた。彼自身は初挑戦だそうだが、今作品でこれまた初心者とは思えないサーフィンシーンをこなし、スポーツ万能という印象を強く残した。

とてもいい映画だ。
DVDが出たらまた観たい作品のリストに加わることだろう。

あちこち出かけた2012/06/13 23:10:19

仕事のための資料を探しに、午後のほとんどを都内を回って歩いた。
おかげで活動量計は久々に15000歩を超えた。

わたしたちのなかにあるもろさを直視できるようでありたい2012/06/14 23:01:16

いまに始まったことではないけれど、凶悪犯罪や社会的な大きな事件が起きるたびに、ネット上では「死刑にしろ」といった発言が飛び交う。そしてほんとうに死刑を執行されれば「ざまみろ」というような書き込みも。
さらには身近な人であろうがまったく知らない他人であろうが、彼らの言葉やふるまいをみてそれが自分の常識に反しているとき、わたしたちはつい、彼らを批判してしまう。たとえばホームにある点字ブロックの上に足を乗せている人。車内で化粧をしている人……。
はっきり言ってしまうと「わたしはあんなやつとは違う、常識的な人間だ」という優越感を抱いてしまう。そこから批判につながる。

何度もここで書いたように、ポーランドのオシフィエンチム(アウシュビッツ)を訪れたり、アンネ・フランクの隠れ家を訪れたりした。
いまこうして一応は衣食住も恵まれた生活のなかにいる。
だが、もしあの時代に生きていたらどうだっただろう。アンネのような境遇にいたかもしれないし、ナチスと同じ抑圧者の立場にいたかもしれない。いまこうしてわたしは「人を殺すのは悪だ」と言い切れる。キリスト者としての信仰ももちろんあるのだが、それだけではないような気がする。

今日の新聞のコラムに、こんなくだりがあった。
浄土真宗の親鸞の言葉だという。
「自分が殺しをしないのは、この心が善だからではない。たまたま恵まれた状況を与えられているから盗みや殺しをせずに生きていられるけれど、しかるべき環境と精神状態におかれたら、盗みも殺しもするだろう」

盗みや殺人を正当化するのではない。
たまたまそういう状況にいないだけで、もしそういう状況下にあったら、わたしもしてしまうかもしれない。
それは行為の正当化ではなく、誰にも……わたしにも、これを読んでくださるあなたがたお一人おひとりにも、起こりうる。

はじめに書いた、ネット上での「死刑にしろ」といった発言や書き込み。
それらを書いたり言ったりしている人たちに問うが、あなたがたは絶対に犯罪を犯さないと言えるか? もし死刑執行の場に立たされたら、それでもあなたは冷静にいられるか?

アンネは「ひとのこころは善である」と信じて疑わなかった。わたしも同じである。
だが絶対に悪をしないとは言い切れない。もしかしたらあす、なにかをするかもしれない。
そういう弱さ、こころのなかの悪をやりかねないのだということを意識していれば、とても凶悪事件の容疑者だからといって断罪する立場にはなれないし「死刑にしろ」といった発言や書き込みはもちろんできない。

社会が閉そく化しているからだろう。そういった一刀両断歯切れ良い発言が注目を集める。単純ゆえに優越感があったり他者を見下したりする。
そんな単純な発言ではなく、わたしたちのなかにあるもろさを直視できるようでありたい。

やっぱりもっと舞台を経験したい2012/06/15 23:46:52

仕事のあとに内幸町であった朗読舞台『風もの語り』を観てきた。

う~ん。やっぱりもっと舞台を経験したい。

間をおいて読む、言葉や行間にある思いをくみ取りながら読む。

一日ずっと手話がらみで楽しかった2012/06/16 23:53:08

蒸し暑く雨が降り続いた今日。
午後から地域の手話サークルの交流会と、夜に難聴者協会の手話サークル。一日ずっと手話がらみで楽しかった。

「悪事千里を走る」
難聴者の使う、日本語対応手話なら「悪い+1千+指文字り+続く」だが、ろう者が使う日本手話では「悪い+あっというま(に広がる)」。
「一難去ってまた一難」
「苦労+過ぎる+また+苦労」となるけれどろう者は「(右に向けて)苦労+やっと+(左に向けて)苦労」と表す。

つまり文字通り直すのではなくイメージで表していく。
イメージだから簡潔であったり状況や情景が表れる。
ある意味演じているのに近い。

信仰とはなんだろう2012/06/17 22:53:08

信仰とはなんだろう。

17年前に起きた地下鉄サリン事件はじめ、多くの凶悪事件を起こしたオウム真理教で、逃亡していた3人の容疑者が今年に入って逮捕された。
なかには恋人とともに逃げていた者もいた。
逃亡していたあいだ、何を考えていたのだろう。
好きな、愛を交わしたり思いを寄せたりしていた人はいただろう。だが事件でいのちを絶たれたり障がいを負わなければならなかったりした被害者犠牲者、彼らの家族、さらには容疑者の家族もどんな苦しみを受けていたか。

オウムは絶対的な指導者のもとに階級をつくり、そこに到達できなければならなかったり、指導者に服従することを求められていたときく。
そこにあるのは、純粋なこころの平安ではなく、他者を出し抜きたい、指導者に認められたいという、人間的なつまらない欲求だった。

理不尽な事件のためにいのちを絶たれた人にも、将来への希望や夢や思いがあった。生きていたらかなえたかっただろう。でももうかなわない。生きている人たちも、やはり筆舌に尽くしがたい思いで生きている。

ひるがえってわたしたちキリスト者。
わたしたちにももしかしたら同じように他者に対して序列をつけたり、あの人この人と比較したりしてしまう。
そうではなく、自分や他人を基準にするのではなく、あくまでも神さまを基準に、他者を認めあう生き方へ。それがほんとうのキリスト者の信仰なのではないだろうか。

事件は過去のことではない。現在もなお続いている。

自分の世界にこもることではない2012/06/18 22:56:08

オウム真理教の一連の事件で逃亡していた、最後の容疑者。
新聞報道できく限りでは、死刑囚となった、教祖への信仰をいまだ保ち続けているらしい。留置場でマントラを唱えたり蓮華座という座禅を組んだりしているとも。捜査員には一連の事件について「気持ちの整理がつかないのでまだ話せない」と語る一方、自分が信じている信仰についての話をするときには熱心に語るのだともいう。

わたしも外出先や出勤途中で聖書を読む。
キリスト教に理解がなかったり違う信仰であったりする人にとっては、奇異の目で見たり嫌がられたりすることもあるかもしれない。

信仰とはなんだろう。
自分の世界に閉じこもるものではない。自分が正しいと信じているのなら、それを主張しつつ、異なる人の信仰にも理解をもつべきであろう。

信仰があるからこそ、生き生きとした生活をおくることができる。
そして自分と他者を相対化する目をもつことにつながる。

台風接近2012/06/19 23:21:19

この時期としては珍しい、台風4号の接近に伴い、仕事も途中で切り上げ、夜に予定していた手話つき朗読の取り組みも中止になった。

19時に自宅に着いたときはまだそれほどでもなかったのが、1時間もたつと、ものすごい雨と風で、帰宅した人たちはみなびしょぬれ。夜に入って交通機関も今日22時34分 現在、都営新宿線が京王線内での強風の影響で、一部列車に遅れがあるなど、あちこちで運行を見合わせたり折り返し運転になったり影響が出ている。

福島や岩手など震災被災地にも避難勧告が出るなどたいへんなようだ。
どうか被災地はじめ、避難している人たちが無事でありますように。

4号に続いて5号が接近しているという。今週いっぱいは天気が悪い日が続くことだろう。

とても少ない2012/06/20 23:51:16

仕事を終えて手話サークルに顔を出す。今日はゲームをして過ごした。
昔日曜日夜にNHKテレビでみた『連想ゲーム』を思い出したが、2つのグループに分かれてある言葉を当てる。しかしNGワードがあって、これを手話で言ってはいけない。たとえばスマートホンというとき、携帯電話を使わない、というように。
もうひとつのゲームでは、いすとりゲームだったがフライングを3回やるか、いすを得られなかったらアウト。みごとに3回フライングをやらかしてしまった。

教会に手話通訳士がいない。
最新のデータによれば、日本には2963名の手話通訳士がいるという。
だが他教会から来てもらったり、隔週に手話通訳があるなど、体制も状況も整っていないところが多い。だからろう者や難聴者にしてみれば教会に行きたくても手話通訳がいないために、遠ざかってしまうことも多い。

イエスさまはだれにでも門戸をひらいてくださったはずだ。幼な子さえも神さまにとってかけがえのない存在だと教えられた。
なのに聴こえない人が過ごしにくかったりなじめなかったり溶け込めなかったり。
そんな日本のキリスト教会の姿はおかしいと思うのだが。