わたしたちのなかにあるもろさを直視できるようでありたい2012/06/14 23:01:16

いまに始まったことではないけれど、凶悪犯罪や社会的な大きな事件が起きるたびに、ネット上では「死刑にしろ」といった発言が飛び交う。そしてほんとうに死刑を執行されれば「ざまみろ」というような書き込みも。
さらには身近な人であろうがまったく知らない他人であろうが、彼らの言葉やふるまいをみてそれが自分の常識に反しているとき、わたしたちはつい、彼らを批判してしまう。たとえばホームにある点字ブロックの上に足を乗せている人。車内で化粧をしている人……。
はっきり言ってしまうと「わたしはあんなやつとは違う、常識的な人間だ」という優越感を抱いてしまう。そこから批判につながる。

何度もここで書いたように、ポーランドのオシフィエンチム(アウシュビッツ)を訪れたり、アンネ・フランクの隠れ家を訪れたりした。
いまこうして一応は衣食住も恵まれた生活のなかにいる。
だが、もしあの時代に生きていたらどうだっただろう。アンネのような境遇にいたかもしれないし、ナチスと同じ抑圧者の立場にいたかもしれない。いまこうしてわたしは「人を殺すのは悪だ」と言い切れる。キリスト者としての信仰ももちろんあるのだが、それだけではないような気がする。

今日の新聞のコラムに、こんなくだりがあった。
浄土真宗の親鸞の言葉だという。
「自分が殺しをしないのは、この心が善だからではない。たまたま恵まれた状況を与えられているから盗みや殺しをせずに生きていられるけれど、しかるべき環境と精神状態におかれたら、盗みも殺しもするだろう」

盗みや殺人を正当化するのではない。
たまたまそういう状況にいないだけで、もしそういう状況下にあったら、わたしもしてしまうかもしれない。
それは行為の正当化ではなく、誰にも……わたしにも、これを読んでくださるあなたがたお一人おひとりにも、起こりうる。

はじめに書いた、ネット上での「死刑にしろ」といった発言や書き込み。
それらを書いたり言ったりしている人たちに問うが、あなたがたは絶対に犯罪を犯さないと言えるか? もし死刑執行の場に立たされたら、それでもあなたは冷静にいられるか?

アンネは「ひとのこころは善である」と信じて疑わなかった。わたしも同じである。
だが絶対に悪をしないとは言い切れない。もしかしたらあす、なにかをするかもしれない。
そういう弱さ、こころのなかの悪をやりかねないのだということを意識していれば、とても凶悪事件の容疑者だからといって断罪する立場にはなれないし「死刑にしろ」といった発言や書き込みはもちろんできない。

社会が閉そく化しているからだろう。そういった一刀両断歯切れ良い発言が注目を集める。単純ゆえに優越感があったり他者を見下したりする。
そんな単純な発言ではなく、わたしたちのなかにあるもろさを直視できるようでありたい。