問われ試されているということ2012/03/11 20:17:07

一年前。
14時46分18秒に起きた巨大地震はマグニチュード9という、想像を絶するものだった。
あたりをかき混ぜたようなとんでもない揺れが2分以上続いた。そのあとでテレビから流れた津波、押し流される家屋。あまりにも衝撃的な映像に、あぜんとするしかなかった。

一年が過ぎた今日。
地震発生と同時刻にわたしは深くこうべを垂れた。亡くなった1万5000人以上の人たち、いまなお行方が分からない人たち。家族を、家屋を、財産を、いろんな人の絆つながりを失い断ち切られてしまった人たちのことを思った。

黙とうをささげた後であらためて思う。
今こうしてわたしたちが生かされているということは、生きたくても生きられなかった人たちのぶんも生きる責任がある、ということだ。
死んでしまったら何も言えない何もできない。「いま」できることしなければならないことをせずにいて、いつできるのだろう。

今日、ある人とお会いする機会があった。
いろんな会話を交わし、笑い、語り合った。
わたしもいつかは死んでいく。いつかは神さまのもとに帰らなくてはならない。
だが今こうして生かされていること生きているということは、生きているあいだに何をしたか何をしなかったかが問われ試されているということでもある。

神さまのために。
わたしにとって大切な人のために。
わたしとかかわりを持ってくださる人たちのために。
最後に自分のために。

失うのではなく何かを得るために、明日からの新しい日を強く生きていこう。
神さまに、さきに逝ってしまったしまった人たちに恥ずかしくないように。


   願わくはわれらにおのが日をかぞふることを
   をしへて智慧のこゝろを得しめたまへ (文語体)
   生涯の日を正しく数えることを教えて下さい。 
   知恵ある心を得ることができますように。 (新共同訳)

                    旧約聖書 詩篇 90:12