双方にとってとても不幸なのではないか2011/11/10 23:33:03

今日はみっともない朝から始まった。
昨晩ジャーを開けっ放しにしたために、ごはんがかたくなってしまい、弁当をつくることができなかった。しかたないから昼と夜は外食、それもラーメンで済ませる始末。ナサケナイというしかない。

ひとつ年をとった翌日、久しぶりに卓球の練習に行ってきた。まだまだ動けると実感。周りを見るとご高齢の方も見かけたが、実際、卓球は高齢になってもできる数少ないスポーツだ。トシをとってもできるのだからわたしもまだまだ練習を重ねればうまくなると思う。

昨日の教会での「聖書を学び祈る会」。昨日に始まったことではなく、わたしにとって正直、礼拝よりも行きづらい参加しにくい、と感じる。
牧師はわたしが聴こえないということをもう重々ご存じで、昨晩もいつもと同じように聖書の個所の解説を書いたプリントを用意してくださっただけではなく、いま語られている話はどういうことなのか、その場で手書きで書いて下さった。けれどもそのために時間をとられてしまうのはこころ苦しい。
聖書解説だけならそれでもいい。そのあとに信徒がその日の聖書の個所について語り合うわけだが、はじめに書いた「礼拝よりも行きづらい参加しにくい」理由がここにある。つまり、自由に話し合うのはわかるが、いまどういう会話なのかをリアルタイム同時進行でつかむのが難しい。聴こえないために、話の内容をつかみ、発言したいと思ってもそのときにはもうその話題が終わってしまって意味がない。トンチンカンな話をして場の雰囲気や空気を壊してしまうのもいやだから、黙り込んでしまう。そして祈りのときには聴こえない。

手話がない、会話の情報保障がない、聴者のなかでたったひとりぼっちにおかれてしまう。そういうことがあるから、正直本音を言うと、パーティーだとか集会だとか、聴者ばかりの場には行きたくないのだ。これから忘年会だとかつきあいがあるのだけれど、本音を言うと参加したくない。

せめて情報保障があるとか手話や要約筆記だとかがあると、聴こえない人でも会の雰囲気に溶け込めるのだが。
残念なことに日本の教会、特にプロテスタントはどうも、そういう意味で弱者を排除しているような気がする。それはプロテスタント教会、わたしたち聴こえない人たち、双方にとってとても不幸なのではないか。そういうつもりや意図はないのだろうが、結果として排除してしまうために、聴こえない人が教会や礼拝に行きたくても足を遠ざけてしまう。教会も「開かれた」と言いながら、障がい者を理解し、ともに生きていく手がかりを自ら捨ててしまっている。

なんと不幸なことだろう。

わたしが結婚式を挙げるとき(お相手がいなかったら実現しないね)、いや誰でもいつかは迎える葬式のとき。もしわたしの知人友人、聴覚障がい者の仲間たちが来てくれるなら(それをわたしは確かめようもないね)、プログラムには手話賛美歌を。牧師のメッセージには手話通訳を。それぞれつけてほしい。