女性に門戸を開く「男社会」2011/11/01 23:08:00

日本はまだまだこの分野では遅れていると感じるのだが、アメリカは一歩も二歩もすすんでいるというか学ぶべきだというか。

Dodgers make Falsone first female head trainer
http://losangeles.dodgers.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20111031&content_id=25851790&vkey=news_la&c_id=la

野茂英雄氏が在籍していたことでも知られ、日本ではニューヨーク・ヤンキースと並んで知名度の高いメジャーリーグ球団、ロサンゼルス・ドジャース。
ワールドシリーズが終わったばかりの先月31日(現地時間)、ロサンゼルス・ドジャースのウェブサイトに、球団トレーナー部門にスー・ファルソニーさん(37)が就任すると発表した。それによれば、メジャースポーツ球団史上、女性としては初のトレーナーになるという。
ウェブサイトによると、2007年にドジャース球団に採用され、メジャーリーグ初のフィジカルセラピストとして働き、理学療法や選手のアスリートパフォーマンス向上につとめるという。

実は日本人がNFLフットボールですでにトレーナーの仕事についていた例がある。
磯有理子さん。
1996年ポートランド州立大学(オレゴン州)のアスレティックトレーナーとして、同大学のフットボール、女子バスケットボール、レスリング、陸上競技などのトレーナーを務めた。2000年、01年とピッツバーグ・スティーラーズのキャンプにインターンとして参加したのち、02年に男子スポーツ界では3人目となる、スティーラーズの女性トレーナーとなった。磯さん以前にいたのはNBAプロバスケットボールで、フットボールでは磯さんが初である。今年6月からはオレゴン州立大学のヘッド・フットボール・アスレティックトレーナーだという。
http://www.osubeavers.com/genrel/iso_ariko00.html

磯さんを3度のスーパーボウル(06年第40回大会、09年第43回大会、11年第45回大会)の放送で、けがをした選手の治療にあたる場面で見たことがある。

日本ではフットボール試合でタイムアウトのときに給水をするのはもっぱら女性だが、アメリカでは男性が担当することがほとんどだ。
そういう「男社会」のなかで女性が進出するのはなかなか難しいのが現実なのだろう。だが能力と意志があれば、男女関係なしに門戸が開かれるのも、またアメリカの一部でもあるのだ。

日本は管理職はいるけれども、企業の女性役員がほとんどいない。
たしかに理解し合えない部分もあるだろうし、男性からすれば領域を奪われると感じるかもしれない。だが女性がいることで異なった視点や見方から得るものがあるだろう。

スー・ファルソニーさんの活躍をこころから応援、期待している。

スターバックスのオリジナルマグカップ2011/11/02 23:54:20

お気に入りの一品に加わったマグカップ
ちょっといろいろあって疲れた、今日一日。

会社でコーヒーをのむときに使っているマグカップが大きすぎて、小さいサイズに替えたいと、出勤前にスターバックスへ立ち寄った。
そこで店員さんに声をかけて商品を探してもらったなかに、スターバックスのオリジナルマグカップ、つまりシアトルの第1号店にあるのと同じ、茶色のロゴがはいったカップがあった。やや大きいけれど、日本ではたぶん手に入らないかもしれない。シアトルに行ったときを思い出したのはもちろんのこと。

大事に使いたいね。

スケールは異なるけれど2011/11/03 23:09:06

休日の今日。ほんとうは教会のバザーがあったのだけれど、ひどく疲れがたまって食事も朝はなにもとらず、お昼と夜にレトルトカレーを食べただけ。寝たり起きたりを繰り返した。そんな休日を過ごした。

午後7時30分ごろか、震度4の地震で目が覚めた。房総沖で地すべり地震が起きているという今週の新聞記事を読んだことがあるが、今後大きな地震が起きないかと不安を感じた。
そのままテレビをつけて、NFL第8週、アリゾナ・カーディナルズ-ボルティモア・レイブンズ戦と関東大学国士舘大学-早稲田大学を交互に見た。

ここではよくNFLについて書くことが多いけれど、わたしはフットボールはプロだろうがアマチュアだろうが学生だろうが社会人だろうが、8万人も入るような巨大なスタジアムでも数百人しか入らないスタジアムでも、フットボールは同じなのだからと、区別や批判はしないスタンスである。プロは興行でもあるから派手な演出や巨大なスタジアムでないとお客さんが集まらずテレビ放送ができない。カレッジだって有名大学にもなれば10万人も収容できるスタジアムがありグッズ販売も収入になっている。ほとんどプロ化しているといっていいね。

けれど、アメリカも日本ヨーロッパも、みんなフットボールが好きで好きでプレーしているのだ。アメリカやヨーロッパのプロはもちろん生活がかかっているし、自分のことだけで精いっぱい、チームメートであってもかまっていられないほどの生存競争だ。ミスをしたら明日はない、解雇されるという厳しい世界。日本の社会人や学生はそこまでの切迫した状況にはないかもしれないが、けれども厳しい練習を続けてきてたいへんな思いをしながら試合に臨んでいる。日本もアメリカもヨーロッパも、魅力にひかれて、ほんとうにフットボールを愛しているのだという点では、変わりがない。

だからテレビを通してでも、わたしは選手を応援しているし、下手なプレーだったら怒るし、すばらしいプレーには拍手をおくる。

少し疲れはとれたけど2011/11/04 23:24:29

まる一日寝ていたおかげか、今日はだいぶ体調が戻った。

東京も実は寒さがあまり感じられない日が続くのだが、大阪は11月では22年ぶりの2度目の夏日とか。4日午後1時現在で25・6度に上昇した、というから、暑すぎると感じるのも無理はないね。仕事のあとで新宿へ足を伸ばしたら、半そで姿の男性だけでなく、ノースリープ姿の女性もちらほらみかけた。こんな時期には風邪をひいたり体調を崩したりする人が多いようだ。

明日は朗読のあとに手話サークル。

気分だけは……2011/11/05 23:15:55

喫茶店で、注文したのは……
朗読の帰り。
いつも立ち寄る喫茶店で、注文したのは……ノンアルコールビール(笑)。

わたしはお酒がまったくのめない。若いころアルバイト先の打ち上げで、いい気になってビールの一気飲みをやったら、酔っぱらったどころか、頭痛はあるわ吐き気はあるわで、むちゃくちゃひどいありさま。自転車で自宅まで帰ったことはかすかに覚えているが、どこをどうやって帰ったかは記憶がない。

会社に入ったばかりのころも上司や先輩がすすめる酒を飲んだけれどやっぱりからだがうけつけない。
いまはこんなのがあってとても楽しいねえ。居酒屋にて何本もあけて飲むわたしを不思議な目で見る人がいるが、まったく飲めないかわりに楽しめるからいいのだ。

というわけで気分だけは「ほろ酔い」のつもり。

会話のキャッチボール2011/11/06 18:34:14

といってもフットボールではない。わがオークランドは現地時間で日曜日の明日、デンバーと対戦するが、この話はまた試合後に。

礼拝後に都内へ移動して、喫茶店で手話べりをしてきた。昨日の夜も手話サークルに参加し、そのあともくだらない話題からまじめなテーマまでいろいろ話をしてきた。

いつも「かくありたい、かくあるべし」と思いつつできていないのは、きちんと手話でもキャッチボールをしているかどうか、ということだ。フットボールならボールを投げて、受けて、また投げる。投げる時にはかならず相手のほうを向いて投げるはずだ。あさってのほうを向いていては、たとえどんないい回転がかかってもパスは通らない。
それと同じで、きちんと相手のほうを向いているか、相手の話を受けているか、理解しているか。一方的な自分の話題に終始していないか。

近いうちに読み取りビデオを借りようと思う。手話の読み取りだ。
手話が分からない聴者相手ならやむを得ないことだけれど、手話を「準第一公用語」にしたいと思うならふだんから手話を使うことを意識して、きちんと相手の話を受け、理解し、投げ返せるようになりたい。きれいな回転がかからなくてもいいから。

ほんとうに聴こえないことを知ってもらえるために2011/11/07 22:52:15

NFL第9週。
オークランドはホームで同地区のライバル、デンバー・ブロンコスと対戦。
第3クオーター、24-14とリードしていたのが、第4クオーターに14点を奪われて逆転負け。リードしている途中経過に喜んでいたのが、まさかの敗戦に思わず激怒した。
幸い、デンバーを除くAFC西地区3チーム(カンザスシティー・チーフス、サンディエゴ・チャージャーズ、オークランド)は4勝4敗。いずれにも地区優勝の可能性が残っている。第10週はそのサンディエゴ・チャージャーズ戦。勝ってアタマ一つ抜け出てほしい。

音声日本語だけで話すと聴者と変わりないためにわたしが聴覚障がい者であることが伝わらない。補聴器をつければ中途難聴。はずすとほとんど聴こえない、ろう。どう説明しても初対面の聴者にはわたしが聴こえないということが伝わらない。反対にろう者や難聴者からはわたしが聴者と同じように見られてしまう。でも本当に聴こえない。

自分の生活の中で、音声言語の日本語についで手話を「準公用語」にしたいと思っている。
もっと手話を使い読み取り表せるようになり、一方的にまくしたてたり自分の話にだけ終始するのではなく相手の思いや気持ちを理解できるようになったほうがずっといい。ほんとうに聴こえないことを知ってもらえるために手話がもっとうまくなりたい。

早く自宅に帰れたのはいつ以来かな? 今日は久しぶりに夕食を自宅で済ませた。タマゴ焼きを下に敷いて、野菜と肉をいためてやきそばと一緒にして、ポテトサラダを添えた。

誤解が広がったりするのを恐れる2011/11/08 23:27:47

今日の夕刊各紙で取り上げられていた、新型「アシモ」。片足でケンケン立ちができたりサッカーボールをけったり(ボールを認識できなければ不可能)走る速度が従来より3㌔アップしたり。自分の周りにいる人を認識して近接してきたら回避する運動もできる。
驚いたのは手先が器用になったことだ。ドリンクボトルのふたをつかみ、回してそそぐという動作ができる。でもペットボトルのような小さなふたはまだあけられないのだろう。いまのところはコーヒーやお茶を温めるサーモボトルが限界だろうか。そしてもっとも驚いたのは簡単ながら手話ができる。「こんにちは」「家族」「悩む」「~です」くらいならできるらしい。
手話ができるというのは、手や指の細かい運動ができるということ。

こういった「アシモ」の技術進歩にはすなおに認めつつ、でもやっぱり人間がやる手話とロボットがやる手話を混同したりロボットができるのだから人間は手話を覚える必要がない、といった短絡的な話になったり手話への誤解が広がったりするのを恐れる。

今日の日本手話学習では最後に日本手話のビデオをみた。2回見てある程度内容が読み取れた。
時間が限られているなかで今回読み取りのプログラムを作ってくださった先生にこころから感謝を申し上げるとともに、もっと読み取りの機会をつくっていきたい。

終わってから忘年会の出し物など、案を出してみた。
もしかしたら簡単ながら手話落語をやるかもしれない。

今日という一日2011/11/09 22:49:46

今日はわたしの誕生日。何人かの友人知己からお祝いのメールをいただいた。だけどこのトシにもなって祝ってもらうというのは正直、恥ずかしい。

だがあらためて今日という日を思う。

あの大震災からまもなく8カ月になるわけだが、先日手話サークルの旅行で被災地を回って感じたのは、「今日」という日は本来だったら大震災で亡くなった方々も生きたかったはずだ。生きたかったのにいまこの世にいない。
わたしがこうしていろいろ生かされているということは、やっぱり意味があるということなのだ。そして生きたかった人たちのぶんもわたしは生きていかなくてはならない。

今日は教会の聖書を学び祈る会があった。祈りの題は「召天者のために」だった。
わたしもいずれはあちらの世界にいくのだが、名もない、世界に誇るような実績もないまま、この世を去るのかどうかはわからない。だがはっきりしていることは歴史に名が残らないとしても、いまこの歴史のなかで生きているということだ。

何度も書いたり引用したりした、元プロフットボール選手、ゲール・セイヤーズの『I am Third』(邦題『スーパー★ランナー』)から。

 今日一日を何に使ったか。
 失うのではなく、何かを得るために。
 悪しきではなく、良きことに。
 失敗ではなく、成功を得るために。
 今日のために、命をかけたことを忘れぬために。

双方にとってとても不幸なのではないか2011/11/10 23:33:03

今日はみっともない朝から始まった。
昨晩ジャーを開けっ放しにしたために、ごはんがかたくなってしまい、弁当をつくることができなかった。しかたないから昼と夜は外食、それもラーメンで済ませる始末。ナサケナイというしかない。

ひとつ年をとった翌日、久しぶりに卓球の練習に行ってきた。まだまだ動けると実感。周りを見るとご高齢の方も見かけたが、実際、卓球は高齢になってもできる数少ないスポーツだ。トシをとってもできるのだからわたしもまだまだ練習を重ねればうまくなると思う。

昨日の教会での「聖書を学び祈る会」。昨日に始まったことではなく、わたしにとって正直、礼拝よりも行きづらい参加しにくい、と感じる。
牧師はわたしが聴こえないということをもう重々ご存じで、昨晩もいつもと同じように聖書の個所の解説を書いたプリントを用意してくださっただけではなく、いま語られている話はどういうことなのか、その場で手書きで書いて下さった。けれどもそのために時間をとられてしまうのはこころ苦しい。
聖書解説だけならそれでもいい。そのあとに信徒がその日の聖書の個所について語り合うわけだが、はじめに書いた「礼拝よりも行きづらい参加しにくい」理由がここにある。つまり、自由に話し合うのはわかるが、いまどういう会話なのかをリアルタイム同時進行でつかむのが難しい。聴こえないために、話の内容をつかみ、発言したいと思ってもそのときにはもうその話題が終わってしまって意味がない。トンチンカンな話をして場の雰囲気や空気を壊してしまうのもいやだから、黙り込んでしまう。そして祈りのときには聴こえない。

手話がない、会話の情報保障がない、聴者のなかでたったひとりぼっちにおかれてしまう。そういうことがあるから、正直本音を言うと、パーティーだとか集会だとか、聴者ばかりの場には行きたくないのだ。これから忘年会だとかつきあいがあるのだけれど、本音を言うと参加したくない。

せめて情報保障があるとか手話や要約筆記だとかがあると、聴こえない人でも会の雰囲気に溶け込めるのだが。
残念なことに日本の教会、特にプロテスタントはどうも、そういう意味で弱者を排除しているような気がする。それはプロテスタント教会、わたしたち聴こえない人たち、双方にとってとても不幸なのではないか。そういうつもりや意図はないのだろうが、結果として排除してしまうために、聴こえない人が教会や礼拝に行きたくても足を遠ざけてしまう。教会も「開かれた」と言いながら、障がい者を理解し、ともに生きていく手がかりを自ら捨ててしまっている。

なんと不幸なことだろう。

わたしが結婚式を挙げるとき(お相手がいなかったら実現しないね)、いや誰でもいつかは迎える葬式のとき。もしわたしの知人友人、聴覚障がい者の仲間たちが来てくれるなら(それをわたしは確かめようもないね)、プログラムには手話賛美歌を。牧師のメッセージには手話通訳を。それぞれつけてほしい。