人間の営みというものについて思う2011/07/14 23:57:56

改革果たせず「恨無限」…半平太、獄中の漢詩
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110714-OYT1T00402.htm

昨年話題を集めた『龍馬伝』でも登場した、土佐勤皇党を結成していた武市半平太(1829~1865)。
司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』中で、武市が土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件の首謀者だとして藩上層部によって土佐勤皇党は弾圧を受け、半平太も捕らえられ壮絶な暴行をうけ最後は切腹を命じられる場面が出てくる。あまりの生々しい描写に、何度も読むのがためらわれたほど。だが、その半平太の獄中の書が見つかったというのだから、驚きだ。幕末は遠く忘却のかなた、というけれど、半平太は自分の書が21世紀のいまになって見つかったと知ったらどう思うだろう。

武市半平太の獄中の書見つかる 切腹に「恨み限り無し」http://www.asahi.com/national/update/0714/OSK201107140089.html

人生の半分が過ぎようという年齢になって思うのは、人間の営みというものについてだ。
今日、たまたま社内でOBの方とお会いする機会があった。
残りの人生、何を残したかということに思いをめぐらすことがある、とお話ししたのだが、こんなことは若いときなら考えなかったこと。それだけいろいろな経験や失敗を積み重ねてきたということでもある。

龍馬も、半平太も、若くして30歳代でこの世を去っていった。生きていたらのちのち、大きな仕事をしたかもしれない、と思う。だが時代の荒波の中で不本意と失意のうちにこの世を去らなくてはならなかった。

ひるがえってわたしは。
別に偉くなりたいとか人を出し抜いて出世したいとかいう気はまったくない。それどころか、出世なんて興味もない。
ただ、せっかくいただいたこの人生。一度しかないのは、偉くなろうとそうでなかろうと、変わりはない。
こうして聞こえない耳と普通に話せる口をいただいて手話つき朗読の発表に挑戦できる。
本当にこころから願い、それが必要なことならば、その願いは人からどんなにバカにされても実現するのだ。
いつか舞台をつくってみたい。聴こえる人も聴こえない人も手話がわかる人もわからない人も、楽しめる朗読舞台を。
そしてわたしも、もっともっと手話がうまくなって、舞台上でも日常でもいまよりももっと気持ちを伝え、理解できるようになりたい。
それが、一度しかない人生、わたしができる、歴史に対する営みだ。
一度しかない人生だからこそ、前向き、本気で生きたい。