自分の力だけでやろうとはしないで2011/06/19 20:22:16

キリスト教でクリスマス、イースターの次に大事とされているのが聖霊降臨節、日本語では「ペンテコステ」と訳されている。けれど聖霊という言葉にひっかかるのか、日本では一般のひとたちにはクリスマス、イースターほどにはあまり知られていない。

かくいうわたしも教会に通い続けて30年になるけれど、こころのどこかでは「聖霊」という言葉に戸惑いを感じる。霊というから、いががわしい、うさんくさいというイメージ、得体の知れないまがまがしさ、というものだろう。

信仰生活を送ってきて、はじめのうちは自分が熱心であればあるほど熱心であろうとすればするほど、自分中心というか自分が正しい、周りはみな愚かなのだ劣っているのだと言いたげな感情に襲われる。そして思ったとおりの成果ができなかったり現れなかったりするとだんだん徐々にはじめのころの熱意がうせてしまい、やる気を失っていって、しぼんでしまう。牧師の伝道もそうだし、信徒の日々の歩みややりたいこともそうだ。

それじゃだめなんだよな。ほんとうは。
自分ひとりでやろうとか、自分で何でもあれこれこなさなくちゃ、と思うとか、まして周りはみな愚かなのだ劣っているというようじゃ、自分は何様なのさ何者なのさと、神さまからイエローフラッグを突きつけられるだろう。つまり自分をあたかも神さまと同じレベルにおいて言ってしまうのだ。

いががわしい、うさんくさいというイメージではなく、本当の意味での聖霊は、そんな弱さとみっともなさを持ち合わせている人間に、強さと勇気を。自分が自分がではなく神さまによって変えられつくりかえられていくのだという前向きというかプラス思考をもたらせてくれるもの、というべきではないだろうか。
そう考えたら、たかが教会の活動がうまくいかなかったり朗読舞台の取り組みで足踏みしたりしたことなどたいしたことではない。最後に神さまがちゃんと備えてくださる。それに甘んじたらいけないけれど、神さまが備えていい方向に導いてくださるのだと信じよう。

それはいかがわしいことでもうさんくさいことでもなく、自分を変えてくださる大きな導きなのだから。