かならず実現するのだと。2011/05/20 22:22:22

明日と6月第1週の「朗読のレッスン」で、いま学んでいる、『夜鷹蕎麦十六文』(北原亜以子作『その夜の雪』から)は終わり、7月から、9月の舞台に向けた各自のテキストを練習することになる。

今回の舞台テキストは江戸時代である。
言葉も文化も生活習慣も違う、と書いたが、現代では「まっすぐ」という言葉を江戸時代は「まっつぐ」と言っていた、と昨日の新聞の記事にあった。ほかにもイントネーションや言い回しなどが現代とは異なる。
今回『鬼平』をやりながら、江戸弁というかあのころの時代の言い回しにも挑戦してみようか、という気持ち意欲が生まれてきた。

聴こえにくいのはもとより承知の上。10年ほど前に「朗読のレッスン」を見学して受講を決めたときからわかりきっていたことだ。
江戸時代の言葉遣い、言い回しをやってみると、また違った感じが生まれるかもしれない。

女優の石田えりさんが、ヘアヌード写真集を出したい、と、ヘルムート・ニュートンに撮ってもらいたいと口にしてまもなく、それを聞いた人が、ニュートンに話を伝えたのだそうだ。そして撮影が決まった。
石田さんがインタビューでこう語っておられた。
『本当に心から願い、それが必要なことならば、その願いは人からどんなにバカにされても実現するものだ』

先日、知的障がい者の子役俳優がテレビドラマ『生まれる。』(TBS)に出演しているというニュースが各紙に出ていた。
これまでも障がい者を取り上げたドラマや映画があった。だがそのほとんどは障がいのない人が障がい者を演じることが多かった。とくにこの国、日本では。

外国に目を転じると、障がい者が堂々とアクターアクトレスとして活躍している例がたくさんある。『愛は静けさの中に』のマリー・マトリンは手話で語った演技がとても静かで大きな感動を呼んだ。トム・クルーズは学習障害があることでも知られている(わたしたち身体障がいとはまた違うものだけれど)。

障がい者が舞台に立ったり演じたりというと、どうしてもお涙ちょうだい、別の言い方をすれば福祉的な視点でしか見られないことが多かった。逆に言えば、障がい者を障がいのない人が演じるのは、本質をつかんでいないどころか本質をゆがめていないか、と思う。

そうではなく、何かを演じたい表現したい、という芸術表現としてみてほしいとわたしはかねてから思っていた。それが障がい者の社会参加にもつながる。
見世物扱いではなく、お涙ちょうだいでもなく、聴こえなくても何かが表現できる。ひとのこころに何かを伝え訴え、こころに何かが残る表現がしたい。

それは舞台を始めたときからのわたしの願いである。
どんなにバカにされても、それが必要なことだと思うから、かならず実現するのだと、わたしは確信している。

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