まだまだ道は遠い2011/04/30 23:59:49

枝野官房長官の会見全文
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104220315.html

東日本大震災の発生直後から、枝野幸男官房長官の記者会見などで、隣に手話通訳がつくようになった。今月22日の記者会見で、枝野氏は「特に今回、我が国の法制上初めて、隣で手話通訳も頂いているが、手話を言語として法律上位置づけるということに踏み込むことができた。大きな前進だと考えている」と発言、難聴者やろう者のコミュニティーやブログ、ツィッターなどで話題になった。

けれど枝野氏が「大きな前進」と考えているのなら、わたしはちょっと待ってと言いたい。大きな前進どころかまだまだ道は遠い、としか言いようがない。あなたが前進といえるほどわたしたち聴こえない人たちは前進だとは理解していないのだ。

日本手話を学んでいる中途難聴者であり、補聴器をはずすとまったく聴こえないろうであり、話すだけなら聴こえる人と変わりない。このややこしいからだをもつわたしは、つまりは3つの世界を行ったり来たりしているのである。中途難聴、ろう、話すというややこしい世界を往復している。
会社や教会では聴こえる人と同じように話せて意識するしないに関係なく、たとえば筆談を読み声で返事するというように、話すことを求められている。しかし補聴器をはずすとまったく聴こえないから、手話サークルでは中途難聴者との時は声を出しながら。ろう者とのときは声をまったく出さずに。手話を使うのだ。

ツィッターなど書き込みではまだまだ日本語対応手話と日本手話を対立するものとしてとらえたり、日本語対応手話は手話ではないという議論もみられる。だが、わたしはそのどちらにもくみしない。あるのは歩み寄りだけだ。わたしはろう者の世界を理解できるようになりたい。ろう者に中途難聴者を理解せよとは言わないが。

日本語対応手話と日本手話の対立も含めて、まだまだ手話を取り巻く環境は幸せとは言いがたい。
手話、日本語対応手話なり日本手話なりが言語として認められているのなら、学校でも早い時期から教えられるべきだ。読み書きレベルで日本語を教えているのと同じように。
それさえもなく、ましてコミュニケーション、情報を得る手段としての手話をあなたがた聴こえる人たちが、教育の場でわたしたちから奪ってきたのではないか。口話法を覚えろ、手話を使うなと強制してきたのではなかったか。
それをまず、はっきりさせてほしい。