手話言語法2011/02/10 23:53:58

週の初めに、昨年の舞台を見に来てくださった方やこのブログをいつも読んでくださる方から注文をいただいていた、昨年の舞台を収録したDVDをお送りすることができた。時間がかかったけれどお約束を果たすことができて、とてもうれしい。手元にはまだ8枚予備が残っている。

今日の新聞朝刊に、とてもうれしい記事があった。
「手話は言語 法で認めて」

全日本ろうあ連盟 手話言語法に関するサイト
http://www.jfd.or.jp/category/sgh

この「手話言語法」(仮称)は「手話は言語だ、と明確に位置づける法律」である。
いまでもまだまだろう学校は相手の口の動きを見て話を理解する教え方が主流だ。それは聞こえる人の社会に出たときに、聞こえない人が聞こえる人に合わせるというねらいがある。だが、中途難聴者でもろう者でも、主流といわれる「口の動きを見て話を理解する」のはとてもたいへんだ。はっきり言ってしまおう。聞こえる人からの一方的なコミュニケーション方法の押し付けである。
ということは、逆に言ってしまうと手話の社会普及、聞こえない人たちの社会参加をを妨げている理由のひとつでもある、ということだ。徐々にろう学校でも手話を教えてはいるけれど、教えられる先生が少ない。公共機関でなどに手話のできる人が少ない。駅や銀行などで「筆談ができます」というボードを置いたり手話のできる人がいます、などと掲示してくれるところも増えたけれど、手話のできる人はまだまだ足りない。

正直本音を言ってしまうと、悩む。筆談ボードの利点は否定しないけれど、それがあるために、それに頼ってしまう。わたしのコミュニケーション方法のひとつではあるけれど、わたしにとっての「公用語」は手話もあるのだ。たどたどしくてもつたなくてもいいから「『この仕事はいついつまでにみてください』という言い方は手話でなんというの?」と、仕事の合間に聞いてくれたほうが、アイドルなんかのつまらないくだらない雑談よりずっと楽しい。こちらも身を乗り出してしまうだろうし。
そういう意味では、手話が使えないというのは苦痛なのだ。

断っておくが、関心や興味のない人にまで押し付けようとは思わないし考えてもいない。それはかつてのろう教育と同じ過ちの再現にしかならない。
ただ、手話が言語として認知されていれば、ずっとずっと聞こえない人たちにとって生きやすい過ごしやすい社会になることは間違いないし、それは聞こえる人たちにとっても同じことなのだ。聞こえない人が聞こえる人に合わせるのではなく、わたしたちの「公用語」である手話も日本語と同じ言語であること、そこからお互いを理解する糸口になるのではないか。お互いが生きやすい社会になるのではないか。

たまたま同じ新聞の1面に、TOEICの試験で800点以上を社員の義務にしているという銀行の話があった。

めざせTOEIC800点 三井住友銀、総合職全員に
http://www.asahi.com/business/update/0209/TKY201102090462.html

たしかに国際ビジネスの面で英語ができ、なおかつ単なる読み書きやスピーチ以上の能力があればこしたことはない。
ここまでやるかという思いと、聴覚障がい者を雇用する会社にも、手話を義務とは言わないが、仕事上どうしてもやらなくてはならない、というようになったら、少しは違ってくるのかなとも思ってしまう。

ともあれ、手話言語法にはわたしも賛成であり、この実現のために力を尽くしたいと思う。

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