言葉の持つ力2010/12/26 21:49:24

一昨日も書いた、3カ月前の朗読舞台のDVDについて、制作をお願いしている先生とご相談を重ねてきた。
字幕は問題ない。あとはなぜわたしが朗読舞台をやりたいと思い続けてきたか、その動機についての短い説明文がほしいという。さっそくとりかかることにした。

語り芝居である朗読は、語られるからこそ何かが伝わるのだろう。言い換えるならば、文は読まれるだけならなんにも伝わらない。読まれて何かを感じ、それを声を出して表す。感動であるかもしれないし、読まれた文を語り手が声を出して読むことで表現することでもある。

今日のある新聞の投書に、劇団文学座代表で演出家の戌井市郎さんが亡くなったことに触れて、彼の朗読劇演出に感謝したという内容の投書があった。
投書にはこうある。
『戌井さんは、朗読劇が観客の想像力をかきたて、イメージを大きくふくらませることを指摘。「若い世代の皆さんが、良質の演劇や芸術にできるだけふれ、感受性を高めてほしい(以下、略)」と希望を語られていた』

今日、礼拝後に浅草で、「路地裏」というイベントの忘年会に行ってきた。
忘年会会場の壁に、戦没画学生の遺した絵画の展覧会のチラシがはってあった。

あの時代に生きた人たちは「良質の演劇や芸術にできるだけふれ」ることを許されずに戦場へ駆り出されていった。その無念さを思うと言葉もない。

いまこうして曲がりなりに生きてこられて表現するという喜びを味わえる。
だからこそ一度しかない人生だもの、音声言語であろうが手話であろうが語る言葉のもつ力を信じていたい。