ドラマ性の高い作品2010/12/01 00:38:54

Star Wars Episode V: The Empire Strikes Back 1980年に公開された、Star Warsシリーズ2作目。当初9作と発表されていたStar Wars Sagaは、Episode V~ⅥのあとにEpisode Ⅰ~Ⅲを製作して終了した。

『寅さん』などいくつかの例外はあるけれど、総じてシリーズものはだんだん凡作になっていくことが多い。逆に言うと、シリーズ第1作のあとにつくられる2作目で評価が定まるといってもいい。「The Empire Strikes Back」は全6作中、最高のできばえだ、という人もいるほど。

前置きが長くなってしまったが、その「The Empire Strikes Back」の監督だったIrvin Kershnerさんが先月28日、肺がんのため亡くなられた。享年87歳。

Star Wars第1作(Episode Ⅳ:A New Hope)をつくったGeogeLucasさんが第2作目にとりかかるさい、多忙なのと、自分以外の人物に製作してほしいという意図で、ご自分が卒業した南カリフォルニア大学の映画学科で恩師の一人だったIrvin Kershnerさんに監督・製作を依頼した、ときいたことがある。
わたしはIrvin Kershnerさんの作品をあまり知らないのだけれど、なんといっても「The Empire Strikes Back」はとてもいい作品だと公開から30年がたったいまでも思う。
なぜなら単なるスペースアドベンチャーで終わらせず、師匠と弟子、父と息子、兄と妹(公開当時はまさかルークとレイアが兄妹だとは思っていなかった)の対立、葛藤、憎悪……という人間ドラマになっていたからだ。もちろん原作者であるGeogeLucasさんやScreen playを書いたLeigh Douglas Brackettさん、Lawrence Kasdanさんの功績も大きい。しかしいくらいいホンがあって特殊撮影効果などが優れていても、それらを調理し、味付けを加え、仕上げるのはやはり監督の力量によるところが大きい。

天に召されたIrvin Kershnerさん。30年がたっても色あせないすばらしい映画をありがとうございました。

打ち納め2010/12/02 23:55:06

今日は卓球練習日。いつもと同じメンバーが集まって練習をする。
予定があり、今年の卓球練習は今日が最後となってしまった。いわば「打ち納め」とでもいったらいいか。

フォアもツッツキもできる。あとはバックだけ。ひじを基点に、手首をこね回さないように。注意して繰り返し繰り返し練習する。使っているラケットがカーボン入りで重く、ラバーも反発力の強いもの。だからちょっと力任せに打つととんでもなく速い打球になってしまう。余計な力を入れないことだ。

「打ち納め」だからではないけれど、仲間と練習できるのは今年今日が最後だと思ったら、一瞬一球たりとも無駄にできないなと。失敗するのは未熟だから仕方ないけれど、だからこそ練習するのだ。
ただただ、明日卓球の練習ができなくなるようなことがわが身におこったとしても、後悔のないように生きたい。それだけを意識してひたすら練習した。

ホッとしています2010/12/03 22:53:55

サッカーワールドカップ、2018年はロシアに。2022年はカタールで、それぞれ開催が決まりました。日本が落選してホッとしています。

なぜって? 理由は簡単。
2022年の立候補の話が出て、正式に立候補を届けたのは1年前の3月のこと。前回の日韓共催から8年しかたっていない、というのが疑問だった。開催誘致のイベントもなく、ほとんど話題にさえなっていなかった。南アフリカの熱狂はどこへ? と思うほど。盛り上がりがないのだからFIFAにしてみたら「ダメだこりゃ」と内心思っていたのではないか。

設備面では、2022年でも20年しかたっていない陸上競技用のトラックに囲まれたフィールドではなくサッカー専用のスタジアムが少ない。「やったばかり」という8年前のスタジアムも、いまのサッカースタジアムとしてみると機能や設備面で劣っていると見られたのも痛かった。ワールドカップでは開幕戦と決勝戦は最低で8万人収容を要求される。これらを満たすスタジアムが日本にはない。
今日のある全国紙に、FIFAの調査報告書が指摘した各候補地のリスク比較表が掲載された。これによると競技場建設で日本はアメリカ、韓国、オーストラリアとともに「低」とみられ、カタールだけが「中」だった。【運営上のリスク】で総合的にも「低」と判断された。これらを日本のサッカー関係者、誘致を考えた人たちはどう思うだろう。

世界400カ国のスタジアムに、試合の立体映像を配信して仮想の観戦体験をする、というプランはまるでSFもどきだけれど、現実にプレーする選手の試合を見たいから、観客はスタジアムへ足を運ぶ。仮想体験ならテレビやパソコンにつなぐゲームで十分ではないか。

チューリヒでのプレゼンテーション。
50~80歳のFIFA理事の前で8歳のタレントだという女の子まで引っ張り出してきたのがいい印象に思えなかった。日本でなら「かわいいわねえ」で通じるけれど、FIFAという魑魅魍魎、駆け引きや疑心暗鬼や、汚い部分もかいま見える国際スポーツの世界では、日本風のそんな甘いものは通用しない。もっと売り込みや交渉ごとに長けた人物が表に出るべきだった。そういう人材が日本には少ない。この国はそういう人物ほど重用されない社会であるとも言える。


2022年は、もし生きていたら60歳ごろ。だいたい、そのころの日本は若者が少なくなって高齢者が増えているだろう。世界からの観客を運搬する交通網や商業設備や宿泊施設など、安全に保たれるのだろうか。そのためにどれだけ国内から人が確保できるのだろう。サッカーの開催国になることよりも大切なことがこの国に山積しているはずだ。

今回カタールが開催地に選ばれたことで、2022年のあとの2大会はアジアからの立候補は、最短でも2034年大会までできない。
サッカーファンにとってはつらいだろうが、これが現実。世界各国で国代表チーム(セレソン)経験者がプレーているサッカー大国のブラジルだって2回しか開催国を経験していない(1950年と2014年)。そういうことを考えたら、開催国になることばかりがすべてではないよ、と言いたい。

本音を言うとね。今年の南アフリカ大会での周囲のバカ騒ぎでサッカーが嫌いになった。いやサッカーではなく、表面だけのバカ騒ぎが嫌いなのだ。
ともあれバカ騒ぎに巻き込まれることがなくなったという意味でも、ホッとしている。

押してダメなら引いてみろ2010/12/04 23:54:39

今年最後の朗読のレッスン。ミニ発表会でわたしは男役2つを担当した。
お見合いの場面で女性に語りかけるせりふは、そばにいるがごとく、やさしくおだやかに。あわてて駆け込んでくる場面では、興奮冷めやらぬ口調と、やや落ち着いてきた口調とを使い分ける。

「押してだめなら引いてみな」。
そうだと思う。一本調子のせりふでは聞くほうも疲れるだけだ。押して引いての繰り返しとその強弱が説得力をもって響いてくる。

夜の手話サークルは、朗読が楽しかったからか、ゆったり穏やかな気持ちで臨めた。
こちらも、押して引いての、単調ではなくリラックスしつつ楽しめた。

国内フットボールも佳境にはいった2010/12/05 23:19:06

NFLの話題ばかり書いてきたけれど、国内フットボールもいま社会人と大学それぞれ、チャンピオンシップへ向けて佳境にさしかかっている。
大学のチャンピオンを決める「甲子園ボウル」。今年は東日本が、今日あった早稲田大学と法政大学の対戦で38-28で早稲田大学が勝利、8年ぶり2度目の甲子園ボウル出場を決めた。
残る西日本は、関西学生リーグが立命館・関西・関西学院の3校同率優勝で昨日、関西大学と関西学院の1回戦があり、9-6で関西大学が勝利。今日は同じく1回戦の立命館大学対南山大学(東海学生代表)は58-0の大差で立命館大学が勝利。来週対戦する立命館と関西大学の勝者が早稲田大学と甲子園ボウルで戦う。

社会人はこれから。
社会人の代表を決める決勝トーナメントは、オービック・シーガルズと松下電工インパルスに決まり、今月20日に東京ドームである、「第24回JAPAN X BOWL」で両者の対戦で社会人チャンピオンが決まる。
来年1月3日の「ライスボウル」が社会人と学生の対戦、全日本選手権だ。

前にも書いたようにサッカーには、今夏の南アフリカ大会のバカ騒ぎで興味も関心も失ってしまい、嫌いになった。
来年7月8日~16日、オーストリア・インスブルックなどでワールドカップがひらかれる。もちろんアメリカンフットボールの、だ。出場予定国はアメリカ・ドイツ・メキシコ・オーストラリア・オーストリア・フランス・カナダ・日本か韓国とみられている。
圧倒的な体格差をどうやって補うか。
この永遠ともいえる課題に、日本はスピードとテクニックで立ち向かう。
サッカーよりも厳しい条件の中で戦っていくだろう、フットボール日本代表に声援をおくってほしい。

こころに残る手話をテーマにしたドラマ2010/12/06 22:02:30

賛否両論があるのはしかたない。というのはいくら演技のうまいひとが演じたり演じるための技術を身につけたとしても、どうがんばってもかなわないところがあるからだ。

手話をテーマにしたドラマ。聴覚障がい者、手話がメーンになったもの。いろいろあるだろう。
何回もここで書いたり取り上げたりした『愛は静けさの中に』もそうだ。

ネット上であったあるアンケートに「みなさんのこころに残った、手話ドラマは?」というものがあった。
その結果は以下のとおり。
http://cache001.ranking.goo.ne.jp/crnk/ranking/999/entame_14wcYhmF4zHE_all/

わたしは酒井法子さんが演じた『星の金貨』を挙げたい。テーマソングだった「碧いうさぎ」も、手話ソングとしてもとてもいい曲のひとつだ。
6位に選ばれた『名もなく貧しく美しく』はご年配の方なら印象に残っているのではないだろうか。
さて、みなさんの「みなさんのこころに残った、手話ドラマは?」何ですか?

はじめに書いたことだけれど、わたしはだからといって聞こえる人が演技のために手話を学ぶことを否定するつもりも、聞こえる人が聞こえない人を演じることを否定する考えもない。手話を学んで、そこから演技の幅だけではなく人間としても広がりをもってもらえたらと思う。
よく特技に手話を挙げる人がいるけれど、特技というより、相手を理解するために、というべきではないだろうか。手話は聞こえない人たちにとって大事な言語なのだ。音声ではなく空間や身振り、顔の表情、からだの向きなどで表し伝えるというだけであって。
コミュニケーションとしての手話を考えてもらえるのであれば、聞こえる人やタレント、俳優さんが手話を学ぼうとされることにわたしは深い敬意を抱く。
互いを理解するためではなく、まるで特技のように思われるのなら、ちょっと違うのではないか、と思うのだ。

手書きの魅力2010/12/07 22:50:38

愛用の万年筆
仕事の帰りに文房具店に行って、万年筆のメンテナンスを頼んできた。
どうやらインクが詰まっていたらしく、綿棒でキャップ内部を掃除してもらったほか本体のなかにたまっていたインクをスポイトで出して水を入れて洗い流してもらったら、まるで買ったばかりのように書き味がよくなった。

パソコンだのスマートフォンだのケータイだの、便利なものに囲まれている生活。
これはこれでいいのだけれど、キーボードばかりたたいていると、書く字がものすごく汚いものになってしまうような気がして、ペンを持って書くという動作が衰えてしまうような恐怖にも近い思いを感じてしまうのだ。

もう少しいうと、キーボードでたたいて字が出てくる。それがあたりまえになってしまい、覚えているはずの字が出てこなかったことがある。記憶力の低下とは言い切れないけれど、ちょっとこわい。

恋人や親しい人にあてて手紙を書いたりもらったりするのが、手書きの一番の魅力と楽しみだろう。メールだと即座に返事が来ないと不安になるから、あまり好きにはなれない。
わたしのペンケースの中には野球の折れたバットやウィスキーの古いたるの廃材でつくったボールペンもあるが、なんといっても万年筆に勝るペンを知らない。字の濃淡、きれいな字か読みにくい字か? 体調は? 気分がどうであるか? 万年筆で書いた字がそれらを如実に教えてくれる。
パソコンやケータイは、電気がないところでは使えないけれど、いつでもどこでも書いたり読んだりできるから、旅行に行くときでも仕事のときでも万年筆と聖書、補聴器だけは手放せないね。

……あ。補聴器は電池がなくなったらそれでもうおしまい。

カレーライスと「イマジン」2010/12/08 23:06:14

とろ~りとしたカレー
日付が変わった今日未明、カレーライスをつくってみた。深夜に炊事をするのはよくないけれどなかなか時間がとれなくて、こんな時間になってしまった。
できはまあまあ。日本風のとろ~りとしたカレーに、ジャガイモや豚肉がうまくからんでおいしい。日本風のカレーはとろみがないとねえ。

さて話は変わって。
今日は「イマジン」で知られるジョン・レノンが亡くなった日だ。もう30年にもなるんだねえ。
10月だったか、NHKの『BS世界のドキュメンタリー』で、「イマジン」の一部が手話で流れていた。たぶんイギリス英語手話(BSL)だと思う。

想像することは難しいかもしれないけれど、世界が互いの立場を超えて認め合える。少なくとも「わたしはあなたとは違うけれど、あなたの立場を尊重する」といえる社会を。

そういう意味で、まもなくこの10日にオスロでひらかれるノーベル平和賞授賞式に、賞に選ばれた劉暁波(リウ・シアポー)氏だけではなくその家族や友人らが国を出ることを禁止され、彼の受賞に反発した中国政府が各国に欠席を求めていた問題は、失望するに値する。

上からの規制に反対する2010/12/09 23:46:29

『青少年健全育成条例 性描写漫画規制』にわたしは反対である。

今年はじめに、東京都が都議会に提出した『青少年健全育成条例』は、民主党やマスコミなどの反対にあい、不成立に終わった。
だが『青少年健全育成条例』の改正案が出され、いま都議会で審議されている。
新条例改正案は漫画など「刑法、民法に触れる性行為などを不当に賛美・誇張する」作品について、18歳未満への販売を禁止し、店頭での区分陳列を求めるものだ、という。

たしかにコンビニなどにおいてある青年向け雑誌やコミック雑誌の中には、目を背けたい描写があったり、過激なセックス描写が多いものもある。正直言って読みたいとは思わない。
だが、それを上から規制するというのはまた別の問題。
わたしは漫画に描かれている内容をすべて刑罰行為が成り立つかどうかなどというのはナンセンスであり、そんなことで表現が制約され縛られるのはまっぴらだ。かつての戦時中のように、言いたいことも言えないのと、過激な描写をも自分たちの目で取捨選択していく、のと、どちらがふさわしいだろう。
「健全な判断能力の形成」というのは表向き立派な言葉のように見えるが、それを政治家や役人が指示したり押し付けたりするものではない。押し付けられるものでもない。そんなのはいらない、拒否したい。

たしかに過激なものはある。あるからといって規制が恣意的に拡大されたり解釈がどんどんゆがんだり不明確になっていくおそれもある。これもわたしの恐れるところだ。

「健全な判断能力の形成」は上からの押し付けではなく、わたしたち一人一人の判断によってなされるべきだと信じる。一人一人の健全な判断力や考え方を強制されるのは納得できない。
よって、わたしは『青少年健全育成条例』に反対だ。

やっぱり納得できない2010/12/10 23:00:47

昨日も書いた、東京都の『青少年健全育成条例』。
作家や漫画家らが「反対」と声を上げただけではなく、この条例案に反対を示すため、角川書店、小学館など大手出版社も、東京都が2011年3月に開催を計画している「東京国際アニメフェア」出展を取りやめたという。
至極英断で、当然のことだと思う。

昨日も書いたけれど、青年向け雑誌やコミック雑誌の中にはほんとうに目を覆いたくなる、読みたくない描写があるのは事実だ。男性であるわたしでさえも、眉をひそめるどころか、女性や子どもを性欲の対称にしか考えていないとしか思えない、これらの本や漫画には嫌悪感を抱いている。
だがそれを権力や政治家、行政が条例でもって規制しようとするのは、人のこころを縛ろうとするものだ。ろう学校で聞こえる人たちの社会に出るために、聞こえる人たちに合わせることを目的として手話を禁止された歴史があるけれども、そのなかでさえもろう児が先生のいないところやみえないところで手話を使い続けてきた。
いくら規制したり押さえつけようとしたりしても、中国のノーベル平和賞に対する規制や抑圧と同じように、どこかでそれらをかいくぐっていくものなのだ。

規制するのではなく、目を背けたくなる描写もあることを現実として、そこから性を考えていく。禁止したり規制したりするのは社会のあり方として絶対ではない。現実をみつめつつ親子で、家庭で、学校で考えていく。遠回りのようだけれど確実な一歩になるのだ。規制するやり方ほど愚かなものはない。

繰り返すけれどわたしは、『青少年健全育成条例』に反対である。作家や漫画家の「反対」という姿勢、出版社の「東京国際アニメフェア」出展とりやめに賛成であり応援したい。
民主党が賛成するようだけれど、何を考えているのだ。