ふだん使っている言葉ではないからこそ2010/11/29 23:14:08

教会に行くときだけではなく、会社の行き帰りや自宅で読む聖書は、新共同訳という現代日本語のときもあるけれど、旧かな遣いのもののほうが多い。ずぼらでいいかげんなわたしは、はじめは新共同訳と旧かな遣いの両方を同時進行で読むつもりだったけれどだんだん疲れてきていまはどっちかというと旧かな遣いのほうが多くなってしまった。たぶん日本国内の教会でも旧かな遣いの聖書を置いてあるところはもう、数えるほどしかないんじゃないだろうか。まして礼拝で読むなんて人は少ないだろうねえ。

ある新聞記事にこういう文があった。
「『いう』ではなく『いふ』と書くと、意識の上で一瞬滞留する時間ができる。(中略)言葉のすき間で感覚を遊ばせていたいから」

なんとなく、なんとなくだけどわかる。
旧かな遣いで読むのはけっこう骨が折れる作業だ。だけれどどういうのか、時間をかけてじっくり味わえる。余韻というのか、表現が豊かなものになっていくのを感じるのだ。現代日本語の現代かな遣いでも感じることかもしれないけれど、旧かなのほうが、味わい深く読むことができるのだ。
聖書もそうで、日本語への翻訳など先人の苦労がしのばれて、読むごとに味わい深い。現代日本語とはまた違うリズム感というのか、声を出して読むとなおさらいとおしさを感じられてならない。

だからといって新聞まで旧かなにしなさい、とか、見出しを左から右へ、ではなく右から左にしなさい、などと復古調を叫ぶつもりはないよ。第2次世界大戦敗戦直後までの古い新聞を読めるわたしだけれど、そこまではこだわる気はない。

でも、教会の礼拝司会で、旧かな遣いの聖書を朗読してみたいな、という誘惑に駆られてしまう。わたしの教会は役員しか司会はできないからこれは実現できない夢に終わるだろうけど。