「いながらにして」の半面で2010/08/28 12:34:49

昨日わたしは、新聞広告にあった、野口英世さんのお母さんが書いたという手紙に胸を打たれた、と書いた。

聞こえないわたしにとって、もはやファクスよりも、ケータイ、PC問わず、メールというツールは切っても切り離せないし、どこへ行くにしてもケータイ、PCどちらか、あるいは一方なしには生活できないありさまだ。3年前にCFLとNFLを観戦に行った旅行で空港やホテルから日本の実家や家族、知人友人にメールを送ったときは、「いながらにして」という言葉をまざまざと実感した思いだった。

シカさんが書いたこの手紙を読んでみる。
「わたしもこころぼそくありますね(中略) どうかはやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ」

昨日書いた、チリの落盤事故で閉じ込められたという33人の作業員も、いまかいまかという思いでいるだろう。早く助けてほしい、ただそれだけのことだろう。食料や水などを入れた、伝書バトにちなんで「パロマ」(ハト)と名づけられた長さ約1.5メートルの細長い鉄製のカプセルをドリルで掘った直径約15センチの穴から地下に下ろした。引き上げるのに約30分かかる。だがその時間が数時間数年にも感じられるだろう。遠く日本にいるわたしが何もできないのが、歯がゆくさえ感じる。

PCやケータイという利器で豊かなコミュニケーションをしているはずのわたしたち。しかし「いながらにして」という一方で、何かを忘れている、失っているのではないだろうか。

それはなんだろう。
相手を思いやる、思う気持ち。家族でもいいし恋人でもいいし、大切な人を遠くから思う。また励ましたいとか支えたいとか、気持ちを分かち合いたいとか、なんでもいい。けれど一方通行ではない、通い合いたいという思い。メールはすぐに送ることができる反面で、読んだらすぐに返事をしなくてはという圧迫感を感じることもある。メールが来ていないかと何度も何度もケータイをあけては着信を確かめてみた。それはそれで楽しいけれど、すぐに来ないと不安を感じたり失望したりする。手紙なら、投函したあとで返事が送られてくるのに時間がかかるけれど、返事を待つ楽しみと不安が、さらに相手への思いをつくる。
手紙には、活字ではない、手書きの味がある。活字が悪いというのではない。キーボードをたたくのを否定するのでもない。へたでもいい、誤字脱字があってもいい、一生懸命書いた手紙は、かならずどこかで読む人の胸に届く。

わたしの手元にも、かけがえのない大切な手紙がいくつかある。かつて文通していた人からのそれは、30年以上たったいまも箱に入れて保管してある。また、突然もらった、知人からの手紙はとてもうれしい。

個人情報保護などとやかましい昨今、住所を気軽に教えることもできなくなったけれど、そしてメールなしには生きられないほどに便利さを享受しているわたしたち。
たまには、パソコンやケータイではなく、紙とペンで思いをつづって大切な人へ送ってみませんか?