もう終わった サムライブルー2010/06/01 22:28:38

今日から6月。衣替え、というけれどとっくにわたしはスーツを夏物にかえている。

6月になるとわたしのこころは胸騒ぎがおこり始める。
まずなんといっても、フットボールシーズンが間もなく始まるということ。カナダのプロリーグCFLは今月からプレシーズンゲームに入るし、アメリカのNFLは4月のドラフトで選ばれた新人を含む契約選手がいま、ミニキャンプに入っている。最近も、ついこのあいだのドラフトで入団したばかりの新人が容赦なくカット(解雇)されたときいた。それほど厳しい世界でもある。もっともこの解雇された選手は、聞くところによれば、練習に遅刻したりチームへの愛情がなかったりと、問題も多かったそうだが。

サッカーのワールドカップが目前だが、そんなに関心を持って見ているわけではないしそもそも日本代表にもあまり関心も期待もしていない。悪いけれどこのあいだのイングランド代表戦の結果は、失望させるに足る内容だった。オウンゴールなんてとても代表チームのやることじゃない。応援しているファンには悪いが、わたしのなかではサッカーの日本代表は「もう終わった」と辛口の言葉しか送る気がない。

そんなものなんだろうなあ。

つまらないことに気を煩わされることなく2010/06/02 23:38:29

首相が8カ月で政権を投げ出した。
思い出すのは、『アンネの日記』朗読の取材のため、ドイツとオランダを訪れていた最中、ドレスデンのホテルを出る直前に部屋のテレビで当時の安倍晋三首相が辞任したというニュースを知り、あわてて携帯からメールで日本にいる実家へ知らせたこと。実家はわたしからのメールまで、そのニュースを知らなかったというから、笑える。
ともあれ政権が1年ももたないなんてどうかしている。いやその前に、ここまでくると国民の政治に対する信頼が保てるのかどうか、一歩間違えると「こんな政治ならいっそ、強権政治に任せた方がいい」なんていう暴論が生まれかねない。

鳩山さんが記者会見でこう言ったという。
「政権与党の仕事に国民が徐々に聞く耳を持たなくなってきた」

それは違う。逆ではないだろうか。
国民が聞く耳を持たなくなってきたのではなく、国民の声に耳を傾けなかった、あなたたちが問題ではないのか。

さて話を変えよう。

今日は朝出かける前に、鮭を焼き、ポテトサラダとレタス、ブロッコリーを添えてみた。
健康診断で肉ばかりではなく、魚も摂るといいと言われたこともあり、鮭の切り身を買ってきて調理してみた。
味はまあまあ。悪くないね。
今度はみそ汁も添えてみたいと思う。

仕事が終わるまで終日、余計なことに煩わされることなく、集中できた。
夜からの手話朗読の練習にも、いつも以上に身が入った。

明日もまた、一日全力を込めていこう。
「今日はわたしの人生の終わりの初めの日なのだ」、と言い聞かせつつ。

こんな表現があるんだ!2010/06/03 23:51:35

手話つき朗読『ゆずり葉』の手話訳づくり。今日で台本の半分にたどりついた。

まず、さやかが吾朗に問う場面の「今度の役」。当初は役を「仕事」としたのだが、厳密に考えると「役柄、演技」ではないか。そう手話通訳士に質問をして、「役、演技」とする。

次に吾朗の独白。「聞こえる世界で聞こえないおれが生きていくには」。「おれが生きていくには」を「生きる目的」としたが、「溶け込む方法」とも考えられる。ここはどうだろうか? 当初通り「生きる目的」に。

「吾朗の手話も、窓からの明かりでかすかに見える程度だ」「さやかは影のように動く吾朗の手話を見ていた」というくだりでは、イメージを浮かべてみた。どんなイメージか? つまり「影絵」。

「影のように動く」。文章そのままに単語を並べてはたしてろうの人たちはわかるだろうか? 影絵のようにぼんやりと、あるいはシルエットのように吾朗なり彼の手話なりが映る。そんなイメージだ。
だが、先生はまず、「部屋のなかは薄暗く」を、暗闇に入った瞬間手探りするさま、「うすぼんやりと浮かび上がる」を、指を前に出して凝視するように軽く上下に動かして、と教えてくださった。なるほど!

「さやかは影のように動く吾朗の手話を見ていた」というくだりを、影絵を見ているような、吾朗の手話が影絵のような感じでさやかには見えた。そういうイメージではどうか?
今日もっとも驚き学んだのが、ここだ。
影絵ではなく、「手まね」。昔のろう者は学校でも実社会でも、手話を使うことを禁じられていた。そこで彼らのささやかな抵抗として、五指を開いて横に交差させて回す表現。それが「手まね」だった。

こういうふうに意見を出しながら教えていただくことでまた新たな発見があったり、驚きがあったり。
だから、手話つき朗読の取り組みは楽しく、またやめられない。

神が先立つということを忘れずに2010/06/04 22:50:05

ランチのあとで短い時間だけれど、朗読の手話表現の練習をしている。もちろん、声は出さずに、だ。
ところが、少し離れたところで、違う職場の人たちが会話をしているのが聞こえてくる。それもかなり声が大きい。
正直言ってやりづらいと感じる。はじめはうるさいなあとしか感じていなかったのだが、ここしばらく、気にもならなくなった。というか、そういううるささややりづらさを、かえって集中する機会だと思ってうけとめたいと思うのだ。つまりそういう気持ちをそがれるようなものがあるから、短い時間で集中してやらなくては、と。

いま、賛美歌のCDを聴いている。もうすぐ聴こえてくるのは例の『山路越えて』。
山という言葉を思い出したので、久しぶりに聖書から引用したい。

    イエス答へて言い給ふ「神を信ぜよ。誠に汝らに告ぐ。
   人もし此の山に『移りて海に入れ』と言ふども、其の言ふ
   ところ必ず成るべしと信じて、心に疑はずば、その如く成
   るべし。この故に汝らに告ぐ。凡て祈りて願ふ事は、すで
   に得たりと信ぜよ、然らば得べし」

                  (文語体 新約聖書 マルコ傳11:22~24)

自分でなんとかしようとかなんとかしなければならないとか、つまりひとりよがりになったり自分の力に頼ると、思わぬところで失敗したりつまずいたりしてしまう。
そうではなく、まずなによりも神さまが先に立っておられる。わたしたちを導いて下さる。すべての前提に、神が先立つということ。そして備えてくださるのだから、確信を持ってどっしりと構えていよう。

聞こえない耳と普通に話せる口を与えてくださった、ということは、わたしに必要なものはすでに神がご存じなのだから、あわてることはないじゃないか。

きっとこの先も、いろいろなことがあるだろうけれども、確信を持ってあわてずに歩き続けよう。

「主の山に備えあり」

オーバーすぎるというのも……2010/06/05 23:59:45

難聴者協会関係の会議や卓球大会など、予定がいくつも重なっていたために2回休まざるを得なかった「朗読のレッスン」。ギリギリ残り2回に参加することができて、ホッとし、またうれしくもある。

今日は2週間後の最終日に行うミニ発表会の発表分担をくじ引きで決めた後、各自の予行演習を兼ねたご指導をいただいた。
わたしは重松清さんの『おとうと』から。

出だしから終わりまでトータルでよかったのだけれど、弟に大声を上げる場面がまずかった。
パートを終えた後で先生が、ほおに傷をつけるしぐさをする。……ん? こわいオニイサンのような声だったらしく、こわい声、オーバーだというのだ。聞いていた仲間も大笑い。2回休んでいたために溶け込めない違和感を感じていたのが、この笑いひとつで霧散したよう。
う~ん。ストレスがたまっていたのかなあ、それとも気合いを入れすぎたかなあ。
少し抑制をして読んでみた。

オーバーすぎるとかえってうそくさくなったり空気を白けさせたりしてしまう。演技というのも難しいものだ。

来月から始まる、秋の舞台に向けたご指導の申し込みを済ませて、いよいよ気合いが入ってきた。

いまはあまり気にしないことにしている2010/06/06 23:13:18

2週間ぶりの礼拝。日曜日に教会へ、という生活がもう30年近く続いているからだろう。教会へ行くときはどんなに暑かろうが寒かろうが土砂降りの雨だろうが吹雪だろうが、ネクタイスーツ。いまはいいけれど30年後の東京は、地球温暖化で気温が上昇しているかもしれないからそのころはまた、違っているかもしれない(そのまえに生きているかどうか分からないがね)。 

職場では仕事をしなければならない以上、最低限の会話がある。それが手話ではなく筆談であっても、まあいい。けれど教会ではどうだろうねえ。あまり会話を交わすことがない。あいさつはするけれどそれ以上の会話に結び付かない。これはわたしの勝手な推測かもしれないけれど、手話ができる、説教を筆談で聞き取っているということでかえって、聞こえる人には、会話がしづらいやりにくいと思われているのかもしれない。
昔は教会で会話がなかったらさびしいなと思ったものだ。若いころはそうだった。いまほど聞こえが悪くなかったせいもあるかもしれない。けれど、いまはあまり気にしないことにしている。強がりでも意地張っているのでもなく、たとえ世界中のすべての人がわたしを無視したり避けたりしたとしても神がわたしをみておられるのだから、最後には神との対話、言いかえれば日々の歩みをとおして神に見られているのだ、と。だから会話を交わすことなく礼拝を終えて教会をあとにしたとしても、気にしない。世界中でたったひとりだとしても神がわたしのそばにおられる。

今日来てみたら、先月の愛媛・松山旅行について書いた小文が、教会の月報に掲載されていた。
わたしにとって旅行は、手話の学びとともに、コミュニケーションこそ少ないかもしれないが、見聞を広め信仰や思いを深める、とても生きた貴重な機会だ。いつかまた機会があったら書いてみたい。

豚肉とキャベツのさっと蒸し2010/06/07 22:43:00

今日は週明け……。カレーではありません。

キャベツをざっくり切って豚肉バラの下に置いて水を入れて強火で蒸して5分。

蒸したキャベツや豚肉の水を切ってマヨネーズ、酢、マスタードをかきまぜたソースをかければできあがり。味が薄いのが物足りない。

反省点。

1 蒸す前に塩をふりかけるのを忘れていた。塩がまんべんなく行き渡らず味が偏ってしまった。

2 水の量が多かったかな。もっと少なくてもよかったかな。

バラ肉にジャガイモとニンジン、アスパラを巻いて焼くのはどうかな? 朝は忙しいから無理だけど。前もって巻いておいて朝焼くとか。

便利さとは一体何なのか2010/06/08 18:00:17

自宅近くのスーパーマーケットがここ数日、店内改装のため営業を中止した。
このあいだの日曜日、買い物に行こうと思っていたら「営業中止」のはり紙があったのをみて、やむなく2つ離れた隣駅まで足を運ばざるを得なかった。

わたしの住む町の駅の前に商店街があるのだけれど、早くて午後7時、遅くて9時にはもうシャッターが下りてしまう。開いているのはコンビニのほかにはない。
こうなると、スーパーがなにかしらのために開いていないことがうらめしくなる。

東京でも「シャッター通り」と呼ばれるような、商店街で営業している店が少なくなるなどでさびれてしまったところが多い。わたしがかつて住んでいた足立区も昨年訪れてみたら、ある商店街がそのようだった。
もし巨大スーパーマーケットがなくなるようなことがあったら、はたして買い物はどこへ行けばよいのだろう。交通機関のある都会でも、高齢者には通いづらいこともある。

便利さとは一体何なのか、「営業中止」の張り紙を前に考えさせられた。

ひとつひとつ丁寧に頭の中で想像して演じたい2010/06/09 23:00:49

本番まであと3カ月余り。全体の7割まで手話表現ができた。

今日までやってきた手話表現を、手の位置から表現の強弱・登場人物の内面の吐露表現・吾朗とさやかという男女に分けてはっきり伝わるような表現という観点から、ご指導をいただいた。

手話表現で大事なこと、その1。「メリハリ」。
同じようなテンポや速さでは、観客には伝わりにくい。極端すぎても困るけれど、~ない、という場合、ただ手を振って表すのと、ゆっくり、速く、強く、という場合とでは観る人に違って伝わるだろう。強調したい部分こそ強く、はっきりと。

その2。内面の表現はポイントをつかんで。
さやかが吾朗に、「役をやり遂げてほしい。自分を売り出すチャンスくらいにしか考えていない。自分も聞こえないのに同じろう者を見下している」となじる場面。あなたならどこを強調して読みたいだろうか。
わたしは、「自分を売り出すチャンスくらいにしか考えていない」に始まる部分を訴えたい。次に、吾朗が小学校時代、普通の学校でひとりぼっち。みんなに受け入れられたくて、あるとき先生のものまねをやったらウケた。聞こえる世界で聞こえない自分が生きていくにはこれしかない、と感じたというセリフ。吾朗が語るセリフはそのまま、わたしの実体験でもある。だからすべて語りたいけれども、それじゃワンパターンだ。だからどうするか。「みんなに受け入れられたくて」から、観衆へ訴えるようにからだを向け、「聞こえる世界で聞こえない自分が生きていくにはこれしかない」で本来語りかける相手である、さやかへ手とからだを向ける。

長い話になったけれど、要は朗読も手話つき朗読も、言葉やしぐさで物語に引き込む表現だ、ということ。それは落語でも演劇でも言える。演劇なら複数の役柄を俳優さんが分担して演じる。朗読や手話つき朗読は、自分でいくつもの役を演じ分けなければならない。それはどちらかと言えば落語の世界に似ている。

ひとつひとつ丁寧に頭の中で想像して演じたい。
手話表現も力強さ、丁寧さが求められる。手話も声も、男役・女役・ナレーションと丁寧に演じ分けたい。女役の手話は少し女性っぽく小さく動くように。男役は強く大きく演じる。

3カ月余り。本番には多くの人に見に来てもらいたい。

気持ちよく動けた2010/06/10 22:18:33

今日未明に携帯へメールが入って、「卓球練習ができます」とのこと。
久しぶりの練習。

いつも意識しているけれどとくに今日は、基本に立ち返ることと、腰を低く、ラケットを下から上へ、スムーズな動きをすること。これらに気持ちを集中させた。
結果は、いつも以上によく動け、球も何度も返せた。

来週はまだ分からないけれども、もしできるようなら今日のように動きたいものだ。