「いのちがけ」ということの意味2010/05/20 22:49:26

仕事の合間のランチタイム、食事を終えた後。卓球練習後のわずかな時間。台本をひろげて練習をする。

先日も書いたけれど、「いのちがけ」ということの意味をずっと問い続けている。
そこでみえてきたのは、「見返りや何かを期待しない」「必ず実現するのだと信じ続けること」のふたつではないか、ということだ。

松山教会の礼拝説教で語られていたことだけれど、この世に生きているなかでは、思いがけないことや理不尽だと叫びたくなるようなこと、誰かに怒りをぶつけたくなるようなことと出合うことがある。いや人生とはそういうものなのかもしれない。
けれどもわたしたちキリスト者、クリスチャンといわれる人たちは、「わたしたちの本籍は天国」(新約聖書 フィリピの信徒への手紙3:20)と、この世での人生がすべてではなく、死んだ後、神さまのもとに帰ったときに完成させてくださることを信じ続けている。

そう考えていくと、自分ひとりで何かをしようとかやり遂げるのだと思わないこと。神にすべてをゆだねつつ、いまできることに全力を尽くすこと。

舞台は4カ月余り後にある。
多くの人に来てもらいたいと、難聴者協会や知人友人にお誘いをしようと思っている。
が、賛美や称賛を得たいとか、なにか地位が上がるとか見返りだとかを期待することではない。期待しない。そしていい舞台にかならずなるのだと信じ続けること。

あの『山路越えて』の石碑の裏に西村清雄さんを顕彰する碑文が彫られているのだけれど、ところが石碑のあるところは崖になっていて、石碑の裏が見られない。あらためて少し離れたところに碑文を建てたのだそうだが、しかし崖から下を見ると、やっぱりこわかったね。

「いのちがけ」ということの意味。
いつかはわたしも死ぬときが来る。神にいのちを召されるときが来る。崖の下に落ちるようになるかもしれない。
けれどその瞬間まで、わたしの人生のすべてをかけて「見返りや何かを期待しない」「必ず実現するのだと信じ続けること」を追い続けよう。
なにも語らなくても、神さまはちゃんと見てくださるのだと。わたしの歩みを人生を舞台を、完成させて下さるのだと。