なぜ壁になっているのだろう2009/09/03 22:38:57

仕事が終わってから新しい職場の人たちとのむ機会があった。
周りは聞こえる人ばかり。手話ができないので、筆談しか方法がない。しかし、筆談してくれた同僚は、筆談を専門というか、わたしの筆談のためだけに同席してくれたわけではない。彼ものみたいし、話がしたい。だから彼の邪魔、負担になってはいけない、と、聞こえなくても適当に相づちを打ったり話がわかっている「ふり」をした。「ふり」をするのはほんとうは精神的にもよくない。無理やりつくり笑いをして演じているようなもので、こころの底から楽しいとは思えない。だが、そういう場もしかたない。無理やりであってもそういう場と雰囲気を楽しむくらいの、おおらか、ゆったりした気持ちが必要なのかもしれない。

とまで書いて、今日のある新聞、夕刊にこんな記事が出た。

「聴覚障害者の政治参加を保障するためには、政見放送の手話通訳は欠かせない」。当然である。手話だけが政治参加を保障するための手段ではないのだけれど、たとえば字幕や要約筆記なども含まれるけれど、ここでは手話について取り上げたい。

ついでこう書いている。
「政見放送の収録に対応できる人数の手話通訳士を、各地で確保できるかどうかが壁になっている」。
なぜ壁になっているのだろう。その壁とはなんであるか。

ここにひとつの答えがあるかもしれない。
このあいだ購入した、障害者・保育・教育の総合誌『福祉労働』123号(現代書館)のメーンテーマは、「情報保障・コミュニケーション支援」である。

これに、「『情報保障』への、かくも遠き道のり」と題して、永井哲さんという方が文を書いておられる。
永井さんによると、手話通訳士の地域による偏りが大きいのだそうだ。具体的にいえば、2009年1月現在で、東京は522人。神奈川県が242人。埼玉県は157人。いっぽうで、佐賀県が4人、沖縄県は7人、福井県は8人、などと、地域による差が大きい。現状として手話通訳者の不足という問題がある。

とともに、政見放送以前に、手話通訳または手話に対する認識理解がまだまだ低いというのも事実ではないだろうか。
わたしも何度も経験したことだが、会議で手話通訳士の同席を求めても、機密が漏れるなどという口実(言い訳?)で断られる場合が多い、と永井さんも書いておられる。
手話通訳士や要約筆記者の名誉のためにもはっきり書いておくが、手話にしろ要約筆記にしろ、守秘義務が課せられていて、他者にもらしてはいけないのだ。裁判員制度で判決を下す前の評議などについて生涯守秘義務が課せられているのと同じくらいに。
そういうことへの理解が足りないから、手話通訳士になりたいとか目指そうという人が少ない。

今回のわたしの舞台でも、見に来る難聴者やろう者のために、手話通訳をおいてはどうか、と提案した。が、残念なことにいい返事は得られていない。永井さんは「講演会や演劇などで手話通訳は目ざわり」などという容認できない理由で拒否されたり見にくい会場のすみに追いやられたりすることがある、と書いている。聞こえない人が楽しめない舞台はつまらない。説明のために「サービス」と書いたけれども、本来はサービスなどという次元ではなく、予算の都合でつけられないというものではなく、当然の情報保障なのだ。手話通訳は聞こえない人にとって大事な情報保障である。これはいくら主張してもしすぎることはない。

手話はあくまでもコミュニケーションであり情報保障である。聴こえない人たちの、自己表現、何かを伝えるという幅広い意味で、聴こえない人たちによる手話ソング、手話演劇や手話落語だとか手話つき朗読だとかというものもある。いろんなことを言われるけれど、わたしは生あるかぎり、天に召されるまで、これからも手話ソングと手話つき朗読にこれからもチャレンジし続けたい。

この記事では福祉科などで手話を取り入れている高校がある、と書き、ついで「将来手話通訳士を目指したい」という高校生がいるのだとも書いている。だったら、その芽をつぶすことのないように、手話への理解がもっともっと広がってほしい。手話をおもちゃ程度に考えてほしくない。
聴こえない人にとって必要不可欠な存在である。目の見えない人が点字本や点字ブロックを必要としているように。

想像してみてほしい。
もし明日から言葉が奪われたり聞こえなくなったりしたら、情報が手に入らない、人とのつながりが断ち切られたら、あなたはなにを望んでいくのだろう。あなたはどうするだろう。