『渚にて』2009/09/02 20:47:04

いま、三浦綾子記念文学館で購入したCD『ひかりと愛といのち』Vol.1をかけている。本来はこの記念文学館でしか演奏できないものなのだけれど、特別に許可をいただいて朗読で使うことにした。「レクイエム」を使う予定である。

昨日深夜にNHKBS2で放送された『渚にて』という映画。ベッドに入る時間を過ぎていたけれど、はじめのほうだけを観たのみ。

全編モノクロだけれど、核戦争後のオーストラリア、という設定。メルボルン市内を馬車が走り、メルボルン市内の最初の場面で「MAZDA」という広告看板が映っていたのには驚いた。

この作品が公開された1959年と言えば、まだ冷戦真っ最中。ソ連とアメリカを中心に、核による抑止力、平たく言ってしまうと、お互いに多くの核ミサイル、核兵器を持ち、いつ頭上に落ちてくるかわからない。その恐怖が核戦争を呼び込まない、という考え方であった。劇中でも「共産圏に……殺された」というせりふがある。なまなましい対立の時代だったのだ。いまの若い人には想像できるだろうか。

時間がすぎて、第2次世界大戦から70年。
ポーランドで、第2次世界大戦開戦70年を祝う祝典がひらかれた。
だがこの国はナチスに侵略され、国内に虐殺のための強制収容所を建設された被害者である。ソ連とドイツにはさまれ、いくつもの辛酸を味わった。
70年たっても苦しみはいやされない。どころか、ポーランド国内にアメリカがミサイル迎撃基地を建設するなどという話が出るに及んで、一時は新たな冷戦か、とさえ言われた。

わたしはオバマ大統領の核兵器をなくそうという発言に同感である。
現実にはなまなかなことではないのは十分理解している。けれど、このままでいいのか、たとえば北朝鮮が核ミサイルをもったから、さあ日本も、というのはどうだろう。あいつがやったからこっちもやっていい、という理由が成り立つものだろうか。

いま一度、わたしは思う。
未来のわたしたちの子孫、子どもたちにこの星を渡すことができるだろうか。
理想といえばそうではあるけれど、戦いのない平和なくらしが営める世界を、子孫に贈ることができるだろうか。

機会があったら『渚にて』を初めからきちんと見てみたい。