縦軸と横軸の交差2009/03/01 23:22:02

十字架
やっぱり行ってよかったとあらためてつくづく実感した、「塩狩峠」100年メモリアルフェスタへの旅行。

一夜明けてからわたしは旭川から、札幌に戻って、25年前に洗礼を受けた日本基督教団札幌北光教会の礼拝に出席してきた。

わたしがいたころからの教会員もいらっしゃる一方で、お名前も存じない方も多い。
ともあれ25年前にこの教会で洗礼を受けたのは間違いないし、塩狩峠で多くの人のいのちを救った長野政雄さんも札幌北光教会に籍を置いていたという。信仰の先輩がたしかにいたのだ。

昔出会った言葉で、そのときはよく実感できなかったけれど年齢を重ねいろんな経験を積み重ねてきてほんとうにその言葉の持つ意味がわかるというときがある。

隅谷三喜男さん(1916年8月26日~2003年2月22日)東京大学名誉教授などを歴任。東京女子大学学長。キリスト者としても経済学者としても多くの著書を遺し発言された。
そのひとつに、「人生の縦軸と横軸」というのがある。

死という、人の生を断ち切る冷酷な縦軸と、いかに時の流れの中で生きたかという横軸の交差である、というような内容だったと記憶している。

昨日の、「塩狩峠」100年メモリアルフェスタからいろいろなことを思いめぐらした。
事故から100年もたっているのに、一人のひとをこんなにも多くの人がしのび覚えている。すごいことではないだろうか。普通なら亡くなったひとのご家族あるいはご遺族くらいしかしのぶ人はいないだろう。なのにゆかりも関係もないはずの、多くの人がしのび追悼のキャンドルを手に集まった。とてもすばらしいことではないだろうか。

「おくりびと」を「Departure」と訳されたけれども、わたしも何かを遺したといえる人生をおくっておくられたいと真剣に思ったものである。

長野さんは毎年正月に「遺書」を書きあらためて常時携帯していたという。神に生かされ支えられているという信仰が、神と人への感謝ということにつながっていったのだろう。だから最後の最後、究極の場面でみずからのからだを投げ出して救おうという行動ができたのだろう。

死、自分にもいつかは訪れる生の終わりという縦軸に、時間という横軸、と隅谷三喜男さんは語られた。

とすれば、人の人生はなにをもってよしとするかはさまざまだが、なにをしたかしなかったか。そこにあるのではないだろうか。もしかしたら明日は手話ができなくなるかもしれない。声を出すこともできなくなるかもしれない。一瞬一瞬が濃密な、かけがえのないものになっていく。縦軸を意識していくとは、濃密な、かけがえのない一瞬一瞬を意識していくということである。
だったらわたしは、しないことよりすることに挑戦したい。たとえ明日がないとしても、その人生の終わりに向かってなにをしたか。それが問われていると思う。

そういえば、とこの写真を見て気づいた。
十字架も、縦と横の組み合わせだということ。