二人のキリスト教作家2009/02/11 23:40:19

遠藤周作「沈黙」映画化へ スコセッシ監督メガホン
http://www.asahi.com/showbiz/movie/SEB200902100011.html

実はこれまで知らなかったのだけど、遠藤周作さんの小説「沈黙」の映画化はこれが2度目だそうだ。1971年の篠田正浩監督の「沈黙 SILENCE」がはじめての映画化だという。

大学時代に教会の青年会で読んだことがある、この「沈黙」は、実に重苦しく、読後感も、重い鉛がのどから出かかるような、なんともいえない感じだった。それもそうだ。キリスト教弾圧を主題にしているのだが、いまこうして地下鉄でも職場でも聖書をひらいて祈ることが許されている、その幸せのはるか昔に、キリストを否むか信じるかという究極の苦しみを味わわされ、そのあげくに虐殺された、名もない多くの信徒がいたのだということを。

もうひとり、わたしにとって忘れられないのは、三浦綾子さんだ。
今月末に行くことに決めているが、『塩狩峠』でも、主人公・永野信夫の祖母、トセは大のキリスト教嫌い。信夫の実母・菊を生後まもなくに家から追い出したのは、菊がキリスト教徒だったからだ。そして信夫の父・貞行ものちにキリスト者になったことが途中で明らかにされる。はじめはキリスト教を嫌っていた信夫も、いつしか信仰を抱くようになり、やがて塩狩峠で犠牲の死をもって信仰を明らかにしていく……。

遠藤さんはカトリック。三浦さんはプロテスタント、とわかれているけれど、日本のキリスト教文学においてお二人は、輝く大きな存在感をいまもなお示している。
どちらが、というのではない。どちらも、帰天されてなお多くの人をひきつけている。

さて『塩狩峠』。これも実は映画化されている。1973年の作品だ。監督は中村登さん。たしか映画化にあたって募金を集めたときいた。
いま、もう一度映画化はできないだろうか。

When tomorrow comes. this day will be gone forever2009/02/12 23:19:28

Because I am treading a day in my life for it.
When tomorrow comes. this day will be gone forever

I want it to be gain, not loss...
Good,not evil...Sucess, not failure...

In order that I should never forget
The price I paid fot it.

今日は終日、集中した一日だった。
仕事のときはもちろんのこと、誰も来ない卓球の練習でも、周りがどうだろうがパートナーと激しい打ち合いをしていようが、気にしなかった。
成功を得るために。失敗ではなく何かを得るために。自分のためではなく神さまのために。

ひとつだけ自分に言い聞かせたこと。
周りが見ていようがいまいが、神さまはかならず見てくださると。

どんなことが明日起こるかわからないけれど、それでもなお、望みを抱く。
二度と帰ってこない、新しい日を、いのちをかけたことを忘れぬために。

春一番2009/02/13 23:29:53

ついこのあいだまで寒い寒いと言っていたのが、今日は春一番が吹いたという。
気温が14℃だったとか。明日は20℃にもなるという。

衣替えにはまだ早いけれどね。

2月の最高気温2009/02/14 23:39:35

昨晩はとても眠れず、1時間ほど目が覚めてしまった。笑っちゃうよとぼやき、なんとか眠りに就くことができた。

いったい何月だいと、朝食と昼食を兼ねた、遅い食事を取りに外へ出て暖かさにおもわずつぶやいてしまった今日。それから自宅へ戻ってテレビを見たりSPEEDと海援隊のDVDを見たり、聖書を読んだり、仕事に取り組んだりして終日、過ごす。

全国105地点で2月の最高気温を記録したそうだ。24℃は、4月から7月の気温。とはいえ北海道はまだまだ寒い。月末に訪れる旭川は3℃くらいだった。とても東京と同じ感覚ではいられない。花粉症で悩まされている方々にとっては、これからがほんとうにおつらい時期だろう。

聖書、ローマの信徒への手紙、5~8章を読む。
信仰と希望と愛。このなかで大きなものは愛だ、と書いてある。そしてほんとうに罪多いものだけれど、だからこそ希望を与えられているのだと書いている。

若いころよりもさらにより実感として受け止めた。

あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように2009/02/15 23:16:39

なんだろうねえ。
けさ食事をとっただけで、これを書いているいま、空腹感はあるけれど目の前に食べ物があってもたぶん食べる気がしない。のどに違和感があって、詰まったような感じがする。礼拝中も吐き気をおぼえた。
やれやれ。

で、礼拝説教は例によって長く(笑)1時間もかかってしまった。うーん。

今日のタイトルに書いたのは、詩篇121篇。
わたしの助けは天地を造られた主のもとからくるとあり、主はあなたを見守る方と言い切る。主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。そしてタイトルにあるように「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように」、今も、そしてとこしえに、と祈る言葉で終わる。

どんなときも主が導いてくださるのだと、信じて生きよう。

結局朝を食べただけで、昼から夜はまったく食事をとらなかった。

話は変わる。
携帯でも読むことができるようにと、近々この日記にQRコードをつけるつもりだ。
しばらくお待ちください。

挑戦すること。2009/02/16 23:04:53

今日の新聞夕刊に、埼玉県在住のろう学校高等部の生徒が国家資格の危険物取扱者乙種6種類にすべて合格した、という記事があった。

ガソリンや灯油など一部の危険物取扱丙種に合格したのは17歳のとき。ガソリンなどに加えて指定された種類の危険物を扱え、定期点検や保安監督もできる乙種中4類に合格、その後も6種類の3類に合格した、という。あっぱれというか拍手を送りたい。

難聴者だからろう者だからというのは、確かにそういう部分もあるだろうけれど、それは一面でしかない。むしろ障がいがあってもなくても、人間としての価値を決めつけられることに問題があると思う。障がいがあっても可能性は閉ざされたのでも否定されたのでもない。挑戦することが大事だ。

秋の朗読舞台はまだまだ半年以上先のことだけれど、テキスト決定は4カ月後をめどにしている。「塩狩峠」も含めていくつかを候補に、まず旭川行きから。
そのほか、覚えたい手話ソングがいくつかあり、朗読舞台も含めた長丁場をかけて、手話ソングと手話つき朗読への取り組みを今週から始める。

ほんとうにやりたいことだからこそ、見に来てほしい人がいるからこそ、どんなにつらくてもかまわない。
絶対に成功させてみせる、と強い意志でいる今日このごろである。

昨日の記事に書いたとおり、QRコードをここにつけてみた。自分の携帯にあるバーコードカメラから、読み取りとアクセスができることを確認。

体調はまずまず。
まだまだ寒い日が続く。気をつけたいものだ。

下戸だって2009/02/17 23:00:27

学生時代、ビアガーデンでアルバイトをしたことがある。夏まつり期間中だけの限定だったが、けっこう。期間が終わって若い人たちのアルバイト仲間が集まった打ち上げのパーティーで、かっこつけてビールを飲んだらそうとう酔っぱらってしまい、地下鉄に乗って目的駅に着いたまでは覚えているのだけれど、そこからさきが記憶がない。

まあ若いときはそんな失敗は二度三度あっていい。むしろそういうみっともないバカげたことをへて、オトナになっていく。

わたしはまったくお酒もたばこもやらない。
ある人は下戸を評して「人生の半分しか楽しみを知らない」とのたまうたそうだ。ほっといてくれ、と半分言いたいね。
とはいえ、のめないけれどのめる人との場はけっしていやではない。むしろそういう、自分にとって「非日常的」空間を楽しむというか、おもしろがるくらいに思っている。

のめなくたってそれなりの、人生の楽しみは持ち合わせているよ。
下戸だって十分楽しいものです。
どうせなら楽しく明るくすごしたいものだ。

神さまにおまかせしてできることを精いっぱいやろう2009/02/18 22:32:22

写真は、昨年1カ月で続けて亡くした、インコ。たま~に写真を見ると思いだしてしまう。でも写真を撮ってよかったなと思うのは、この一枚などを見るときだ。
奥の黄色い頭のインコがこちらを向いて首をかしげるようにしている。出来上がってから気づいたのだけれど、その首をかしげる姿がとてもかわいくて、いつもみるたびに懐かしいなあ、かわいいなあとつい、声をかけたくなる。返事がないのを分かっていながら、こちらもニコニコしてしまう。

亡くなってからまだ3カ月しかたっていない。忙しいから行きつけだったペットショップにも最近は足を運んでいない。昨年末に行ったときはインコを見るとフラッシュバックでちょっときつかった。たぶん今なら少しは耐えられるだろうとは思う。

で、愛するものを天に送ってからいろいろあってはじめのころは、インコに恥ずかしくないようにと感じていたのが、いまは少し変わってきた。もちろん仕事だとかやりがいはりあいを感じ、負けてはいられないという強い意欲は失せていない。だが、天に帰ったインコは神さまのみもとにおられるのだから、このいま生きているわたしがどうすることも何をすることもできない。
できるとしたら、神さまのみもとにいるインコのためではなく、いまこの世界にともに生きている仲間や友人、仕事、いろいろなつながりで結ばれているひとたち、ひいてはこの世界のために生きることしかない、と思う。

いつかはわたしもインコがいるだろう神さまのみもとにいく。いやだといったっていつかは行かなければならないんだから、それまでの時間があるあいだ、できることを精いっぱいやろう。

ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」

                       (マタイによる福音書 8:21~22)

葬儀はどうでもいいと言うのではないし、死んでいる者が自分たちの死者を葬るなんて、ありえないことだと思う。
わたしが感じるのは、イエスさまは「わたしに従いなさい」と、信仰をまず第一にしておられる。信仰が1番目。ついで神のみもとにおられる死んだものを神さまにおゆだねする。つまりは、神さまのなされる領域と人間のしなければならないことは違うのだということ。いま生きているわたしたちも、いつかは死ぬ。だからこそしなければならないのは、信仰をもってこの世界での生活、人生の歩みを信仰者らしくよく生きていくこと。
そういうことなのだ。

現実には難しいことだけれど、祈りつつ、かならず実現すると信じて生きたい。それこそいつ神さまのみもとに行くか、誰もわからないから。その時になって後悔したくない。

いい意味で気合いを入れていこう2009/02/19 23:07:13

今日夜にあった卓球練習は、久々に来てくださったコーチとの激しい打ち合いで、とても濃い内容の充実した練習だった。
台から下がってスピードボールを打ち返す。ラケットを通して腕全体がビリビリしびれるほどに強い打球を打つ。難しいコースもこなせたのがうれしい。
おかげでコーチが帰られた後の、いつもの仲間との練習は、速い打球に慣れてしまったものだから、とても遅く感じてしまった。
都内で6月に卓球も含めた、障がい者のスポーツ大会がある。昨年は初勝利目前でするりと逃げてしまった。今年こそは初勝利を飾りたい。

卓球の前に、手話ソングの練習打ち合わせの確認をご指導くださる手話通訳士とメールでやりとりして決めた。「よりよい表現力が出るよう、さらに磨きをかけましょう」と励ましをいただいた。もちろん昨年以上にいい舞台いい表現をしたいという強い意志で取り組むつもりでいるのはいうまでもない。
自宅に帰って、来週行く予定の旭川旅行に備えて、防寒具や冬用の靴が届いた。あわせて新聞切り抜きも同封されていた。
旅行の結果でどうなるかわからないけれど、まずは取材旅行が歩みの始まりだ。

卓球の試合も、手話ソングも朗読も、できれば多くの人に見に来ていただきたい。
自分のためではなく神さまのために。みんなのために。なんとしてでもやりとげ、やってよかったといえるものを遺したい。よかったねとほめてもらいたいがためではない。そんなことが目的ではない。評価をあてにするのではなく、聞こえなくても何かができるということを。神さまのみわざをあらわすためにやりたいのだ。

いい意味で気合いを入れていこう。

いのちとかかわるということ2009/02/20 22:09:45

生命を扱う、かかわりをもつということはほんとうに難しく大変なことだといまさらながら感じる。まだ親にもなったことがないわたしだけれど、聞こえないと分かってからの親や家族の苦しみはどれほどだったかと思いを巡らせる。
障がいのある子どもでこうだから、不妊の苦しみの中にある夫婦にとってはどれほどだろうか、結婚したこともないけれど、言い尽くせない苦しみがあるということは想像するに余りある。

香川県の県立病院で不妊治療中の女性に、別の女性患者の受精卵を移植した可能性があるとされ、移植された女性は人工妊娠中絶したという報道があった。
記事に接して思わずつぶやいた。「なんてことを……」
中絶するというのは女性にとって大きな精神的肉体的苦しみが伴うという。まして受精卵の取り違えがあったとすると、かかわった女性患者はどんな思いだろう。

記事によると、体外受精の作業をしたのは医師がひとりで行ったと、病院側は説明している。土日は一人。平日もほぼ毎日受精卵を操作していたという。

たんなるミスだとかエラーだとかですまされない、大きな問題ではないか。なんということをしたのだろう、と記事を読みながら大きなショックだった。

不妊治療や人工授精という医療技術や治療方法をわたしは否定しない。異なるけれどわたしも目の手術のおかげで斜視が治った。5、6歳のころだったらもしかしたら失敗して失明したかもしれない。成人してからの手術で体力があるからということもあるだろうし、技術が進んだこともあるだろう。子どもの時なら考えられなかったことがいまできるという喜びは、ほんとうに代えがたいものだ。
けれども、いのちにかかわるというものは失敗したら取り返しがつかないことが大きい。やり直しがきかないのだ。
そのことを、患者も医師も、すべてかかわる人たち一人ひとりがどこまで認識しているだろう。

ほんとうに先端技術はこわい。いのちとかかわるということについてもっと医療の専門家はもちろんのこと、専門ではないわたしたちも、真剣に謙虚にうけとめるべきではないだろうか。