いのちとかかわるということ2009/02/20 22:09:45

生命を扱う、かかわりをもつということはほんとうに難しく大変なことだといまさらながら感じる。まだ親にもなったことがないわたしだけれど、聞こえないと分かってからの親や家族の苦しみはどれほどだったかと思いを巡らせる。
障がいのある子どもでこうだから、不妊の苦しみの中にある夫婦にとってはどれほどだろうか、結婚したこともないけれど、言い尽くせない苦しみがあるということは想像するに余りある。

香川県の県立病院で不妊治療中の女性に、別の女性患者の受精卵を移植した可能性があるとされ、移植された女性は人工妊娠中絶したという報道があった。
記事に接して思わずつぶやいた。「なんてことを……」
中絶するというのは女性にとって大きな精神的肉体的苦しみが伴うという。まして受精卵の取り違えがあったとすると、かかわった女性患者はどんな思いだろう。

記事によると、体外受精の作業をしたのは医師がひとりで行ったと、病院側は説明している。土日は一人。平日もほぼ毎日受精卵を操作していたという。

たんなるミスだとかエラーだとかですまされない、大きな問題ではないか。なんということをしたのだろう、と記事を読みながら大きなショックだった。

不妊治療や人工授精という医療技術や治療方法をわたしは否定しない。異なるけれどわたしも目の手術のおかげで斜視が治った。5、6歳のころだったらもしかしたら失敗して失明したかもしれない。成人してからの手術で体力があるからということもあるだろうし、技術が進んだこともあるだろう。子どもの時なら考えられなかったことがいまできるという喜びは、ほんとうに代えがたいものだ。
けれども、いのちにかかわるというものは失敗したら取り返しがつかないことが大きい。やり直しがきかないのだ。
そのことを、患者も医師も、すべてかかわる人たち一人ひとりがどこまで認識しているだろう。

ほんとうに先端技術はこわい。いのちとかかわるということについてもっと医療の専門家はもちろんのこと、専門ではないわたしたちも、真剣に謙虚にうけとめるべきではないだろうか。