明日がどんな日になるかわからないけれど2009/01/30 00:59:36

わたしがこころに刻んでいる、「アンネの日記」。1944年4月5日と、11日の日記を引用したい。

わたしの望みは、死んでもなお生き続けること! (中略)書いていさえすれば、なにもかも忘れることができます。

もしも神さまの思し召しで生きることが許されるなら(中略)つまらない人間で一生を終わりはしません!(中略)
そしていま。わたしは考えます――そのためには、なによりもまず、勇気と、そしてまず明朗な精神とが必要だと!

昨年朗読で使った個所、1944年7月6日には、こんな文も出てくる。いまならここを朗読で取り上げるかもしれない。

まだこれを知らない人は、ぜひとも経験によってこのことを学び、発見してほしいものです――「澄みきった良心はひとを強くする」って。

けれどもわたしは、なかなか澄みきったというところにたどりつけない。実に細かいことが気になる。ちょっとしたこと、ひとの言葉でさえも。そしてあれでもないこれでもないとひとりで悩み、食も通らないほどになることもある。神経質な性格なのだ。

ほんとうに、もう二度と笑顔にはなれそうもないと感じるほど、あることが理由で苦しんでいる。
しかし、毎晩毎朝祈るとき、いま苦しんでいるのだけれど、そのことがあったから、祈ることを欠かさず、聖書を読み続けている。自分を変えてください、自分の正しさや思いを押しつけるのではなく、大切な存在のために、いのちを捨てるほどに大切な存在のために生きたい。本気でわたしをつくりかえてください。いのちを捨てるほどに大切な存在のために本気で生きたいと祈れる。その存在なしには祈ることも祈る内容も与えられなかった。
とても苦しいのだけれど、それほどに大切な存在と出会えたことを感謝している。

今日がいまの職場での最後の勤務だ。週明けからは新しい職場へ。
今日が、明日がどんな日になるか、望みや思いが実現するかわからないけれど、祈り続けよう。

もし汝ら信仰ありて疑はずば、啻(ただ)に此の無花果の樹にありし如きことを爲(な)し得るのみならず、此の山に「移りて海に入れ」と言ふとも亦成るべし。かつ祈のとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし。
                 (文語体 新約聖書 マタイ傳 21:21~22)

きっと、かならずこのさき何かがあるから。2009/01/30 22:32:01

土曜日がまだあるけれど1月の勤務は今日が最後。月曜日からは新しい職場で過ごすことになる。
少し早いけれど引っ越し作業を進めて今日午後から、仕事をしている。

写真は振動を与えると光るランプに、筆談用のボード。耐重量20キロのマグネットフックを左右、下から支えはさむようにして筆談ボードを置いてみた。うまくいったもので落下しない。いつものように筆談だけではなく、昼食や仕事で出かける時に「不在」などと書いておけば、ボードを見た人はすぐにわかるだろう。
お忙しい中、貴重なお時間を割いてパソコンとプリンタの設定をみてくださった同僚、仲間にこころから深く感謝とお礼を申し上げたい。

昼間はやはり吐き気があってバナナとスポーツドリンクだけですませた。そのぶん夜をしっかり栄養をとったのはいうまでもない。

昨日書いたように、いま抱えている悩みで苦しみ、吐き気を感じたのだ。神経質なわたしの性格は、育ってきたなかで培われたのだからしかたない。悩むなと言われても無理なこと。
バナナを食べてドリンクでおなかに流し込み、聖書を読んで祈った。

ふと浮かんだ。
自分のこころさえこんなに苦しみ自分であれこれ悩むことしかできないのに、どうしてひとのこころをあれこれ言えるだろう。
昨晩の卓球ひとり練習、朗読手話のひとり練習はたしかにシビアだしきついが、誰も見ていないけれど誰かがみている。わたしのこころだけではなく、わたしの周りの人もまた誰かがみている。
まず、あれこれと思い悩んでもいいから、今日一日を悔いなく、失敗してもいいからできることをやろう。
ほんとうに本気で、変わりたい。わたしのこころや気持ちはかならず誰かがみているから、きっとどこかで通じる。

神さまにすべてをお預けしよう。いま抱えている悩みも苦しみも、自分のこころも、ひとのこころも神さまにまるごとお預けしよう。今日がその第一歩だ。いつかきっと実るときがくる。
きっと、かならずこのさき何かがあるから。幸せだといえることがあるから。神さまはかならずよいものを与えてくださる。

旭川行きの航空券と電車、ホテルの予約をとった。
一カ月後が楽しみだ。