Shiokari passとSilver Anniversary2008/10/11 19:06:21

今年は、わたしが札幌北光教会で洗礼を受けてから25年目。Silver Anniversaryという節目の年にあたる。
とはいえ、正直言って、世間の人や信徒がいうような、すばらしい立派な信徒とはとても言えない。

塩狩峠。
北海道和寒町にあり、JR宗谷線が走っている。
1909年2月28日。客車最後尾の連結が外れ、逆降暴走したとき、乗客だった長野政雄さん(旧国鉄職員)が自ら車輪の下敷きとなって乗客の生命を救った実話をもとにした小説、「塩狩峠」を著した三浦綾子さんの旧宅を復元し、あわせて長野政雄顕彰碑もここに建てられている。写真は列車事故と長野さんの歩みを記した顕彰碑の裏側。「Shiokari pass」とは、「塩狩峠」の英訳であり、この小説の英語訳タイトルでもある。

いまだから言えるが、「塩狩峠」を読んで感動して洗礼を受けたのだけれど、はっきり言って信仰の本質も何も分かっていなかったと思う。いやSilver Anniversary、25年目が迫ったいまもまだ分かっていないのかもしれない。

けれどいろいろな経験や思索や過ちをへて、少しずつ信じられるようになってきた、というのが正直なところだ。

長野政雄さんは旭川六条教会で教会学校の先生もなさっておられたが、なんとわたしが洗礼を受けた札幌北光教会ともつながりがあったらしい。

どこまで長野さんの足元にたどり着くことができるかわからないけれど、わたしなりに、「一粒の麦」たらんと、歩みをさらに深めたい思いである。

名もない花だけれど2008/10/12 17:06:58

小さな、目をこらしていないと気づかないほどに小さな花。
たまたまひょいと目をやったときに視界に入ってきた。

人間はどうも、自分を大きく見せようとしたり、見てほしいと周りに要求したがる生き物だ。
花を見ると、何も言わず主張もせず、しかししっかりと根を張り、色づいてわたしたちのこころを揺り動かしている。

どちらが、とは言わない。
ただ、自分の立ち位置をしっかり確かめ直したいものだ。

月夜2008/10/13 00:17:40

暑い一日。月がとても美しく地上を照らしてくれる。

昔高校時代に、満天の夜空いっぱいに無数の星をみたとき、なんともいえない鳥肌が立つのを感じた。
都会ではまずそんな夜空をみることはない。

人間がどうあろうと、いまも星は輝き、何光年も離れた距離にある星からの光は、気の遠くなるような距離と時間をかけて地球に届いている。
それに比べて人間のやることといったら……。

けれど今日も明日も、生きる歩みは続く。

収穫感謝祭2008/10/13 19:16:39

わたしの故郷北海道のキリスト教会、とくにプロテスタントの日本基督教団は、広大な土地に教会が点在している。札幌などの都市部であろうと浦河など地方であろうと、いろいろな苦しみや負担や悲しみ喜びを分かち合おうという連帯の結びつきがとても強い。遠く離れている教会同士で牧師を招いて説教をしていただく交換講壇や、年に一度北海道全部の日本基督教団の教会が集まって修養会を開いている。こういった取り組みは内地の教会ではなかなかお目にかかれない。

で。話を戻す。

汝その地の穀物を穫(かる)ときには汝等(なんじら)その田野(たはた)の隅々までを儘(ことごと)く穫(かる)可(べか)らず亦汝の穀物の遺穂(おちぼ)を拾ふべからずまた汝の菓樹園(くだものはたけ)の菓(くだもの)を取つくすべからずまた汝の菓樹園に落たる菓を斂(あつ)むべからず貧者(まづしきもの)と旅客(たびびと)のためにこれを遺(のこ)しおくべし我は汝の神エホバなり
                  (文語体 旧約聖書 レビ記 19:9~10)

北海道札幌市手稲区にある、日本基督教団新発寒教会で収穫感謝祭と秋のバザーがひらかれた。10時から11時45分までの第1部は感謝礼拝と食事。12時から2時間、秋のバザーがある。
当日の礼拝プログラムは以下のとおり。

賛美歌を歌いながら  こどもさんびか30「ハレルヤ」
招きの言葉       ヨハネ福音書15:5
賛美           こどもさんびか102 「わたしたちのたべるもの」
主の祈り
リタニー         「みのりの季節」
聖書朗読        旧約聖書 レビ記 19:9~10
メッセージ       「分かち合う喜び」
祈り、子ども祝福
賛美           賛美歌490 「かみさまに感謝」
献金
食事・交わり
平和のあいさつ
祝福と派遣
後奏

恵みの分かち合い2008/10/14 21:07:43

ふつう、どこの教会でも礼拝は大人が仕切っているものだ。あるいは大人と子どもは別々に別れるか、大人の礼拝の前に教会学校なり子どもだけの礼拝を持っているところが多い。
ここ、新発寒教会は収穫感謝祭の礼拝を牧師と子どもが進行を担当する。たとえばさきに挙げたプログラムにあった、食事・交わりのときにこどもさんびか137を歌った。
各家庭でとれたり収穫したりした果物や農作物を捧げる。
こどもさんびか137の歌詞はこうだ。

  神さまに感謝しましょう ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
  神さまはよいものを下さった ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

歌詞中「よいもの」とあるのを自由に変えてもよい。実際、礼拝では子どもが、目の前に並んだりんごだとか大豆だとか塩だとかを掲げてアドリブを促すと聴衆も合わせて歌う。
子どもは聴いている者、従っている者というのではなく、礼拝に参加している者として扱われている。地方の小さな教会だからできるのかもしれないが、いったい礼拝はだれのためにあるのだろう。大人、役員や年配者が仕切るものだろうか? 教会にいる経験や社会経験が豊富な人が礼拝を仕切るのだろうか? メッセージを語るのは牧師であるけれど。

こういった礼拝はざん新でもあり新鮮でもあり、礼拝について考え直させるに足るものだ。

前日引用した聖書に戻す。
新共同訳の、つまり現代日本語の聖書に直すと、穀物収穫にあたっては、畑の隅々まで刈り尽くすな。落ち穂さえも拾ってはいけない。ぶどうも摘み尽くしてはいけない。落ちた実も拾い集めることを禁止している。
もっと大きなことは、ただ禁止するのではなく、落ち穂も、落ちた実も、残ったものは貧しい人たちや旅行者のためにとっておきなさい、とすすめていることだ。余りものをしかたないから贈るのではなく、めぐむのではなく、困っている人たち貧窮している人たちと、自分たちの収穫を分かち合うためである、ということが大事なのだ。自分たちだけで収穫を独占するな、ということでもあろう。

先日、バナナダイエットについて書いた。以前はトウモロコシなどのバイオエタノールが問題になっていると書いた。
バナナにしてもトウモロコシにしても、あればあるだけ、ほしいならほしいだけ。
そうすると、土地がだんだん少なくなっていくかやせていくか、仮にこれらを増産しようとすると、さらに土地の開墾や畑にするための労力も必要になる。農業について経験がないけれど、簡単に畑も田んぼもできるわけではなく、半年とか一年とか、時間がかかるものなのだ。土質によっては農作物に向き不向きがありえるし、つくるに不向きな土地、農作物もあるだろう。
と、考えて突き詰めていくと、人間はどこまでも際限のない、終わりのない生産活動をしているのではないだろうか。とことん行きつくところまでいくと、最後には地球そのものが疲弊してしまうのではないだろうか、という疑問を抱かざるを得ない。とするなら、人類はイデオロギーや軍事力などのほかに、食糧生産や自然環境の保護をめぐってまた対立し、戦争をおこすかもしれない。
都会にいると、とかく食糧や農作物や魚、肉などは当たり前に手に入ると思いがちである。しかし地方に出てみると、そうではないということをまざまざと思い知らされる。

メッセージを聴き、賛美歌を歌い、地元の農作物でつくった豚汁やおにぎり、漬物などを味わいながら、この世界をおつくりになられた神、「わたしはあなたの神、主である」という最後の言葉に、わたしたちはどれだけ真剣にこたえているだろう。

思い出は尽きることなく2008/10/14 21:25:42

ありがとうパウロ
昨日、ペット病院に預けていた2羽のセキセイインコのうちの1羽、パウロと名付けていたオスが今日、ケージ下で横たわっていた。
人間に換算するとおよそ30歳。まだ生きられる年齢であった。

パウロが家に来たのは、まだうつ病からの回復期だった6年ほど前のこと。はじめから2羽だったけれど1羽は家を飛び出して行方不明、次に入れたのはケージにぶつかったか、首の骨が折れて死んでしまった。

思い出は尽きるどころかいまも鮮やかだ。
パウロははじめから、つまり幼鳥のときから家に来ていた。幼鳥用のえさを与えて元気に食べてくれたのはうれしかった。
わたしに慣れて、手乗りをさせようと手を出したら乗ってきたし、いたずらっぽくくちばしで手をつついたこともある。ふんを手に落とされても、怒る気にはぜんぜんなれなかった。頭より高く上げてもまったくこわがらず、元気に飛び回っていた姿を思い出す。最近のことでいえば、このあいだの朗読舞台の練習を聞いていたのか、口まねのような声をあげていたのをいまも忘れられない。

最後の晩、つまり昨夜はからだをふくらませ、いつも青か肌色の鼻が濃い茶色に変色していたのがとても気になっていた。目を閉じたり開けたり、いま振り返るといのちの炎を最後まで燃やそうとしていたのかもしれない。寝る前にケージに毛布をかけて下からのぞいたとき、パウロは目をしっかり開けて、りんとした姿勢でとまり木につかまっていた。「あんた、しっかりしなさいよ」とでも言いたげな、そんな気がしたのだった。

これで亡くした経験は2度目になるが、やはりつらい。
インコは平均10年だそうだが人の5倍年をとるという。とすると人間ならまだ30代だろうか。もうちょっと生きられたかもしれない。生き物だから限界はあるということは承知しているけれど。
とりあえず病理解剖に出して10日くらいで結果が分かるそうだ。
そのあとにペット霊園へ出し、後日連絡が来るという。

6年間、たくさんの思い出をありがとう。
いつかそっちへ行ったら、また遊んでね。

やまない雨はないのだから2008/10/15 23:29:06

やはり疲れたのだろうか、一夜明けて肩こりと頭痛に終日悩まされた。
過眠症の症状でもあるし、昨日のこともあるのだろう。
もうひとつ、コンタクトだ。旭川に行ったときは問題なかったのだが、帰ってきて左目が外れたまま、無理やり右目だけコンタクトをつけて、バランスを崩したのだろう。

ゆっくりゆっくり、からだとこころを戻していこう。
やまない雨はないのだから。

もう一歩踏み出そう2008/10/16 22:05:34

一カ月に一度の卓球コーチ指導日。今日は久々にコーチが2人来てくださり、思い切った練習ができた。

ラリーから始まって、フォア、バックハンド、左右に動いてフォアとバックを交互に打つ。球が飛んできたとき、これまでなら届かなかった、卓球台ぎりぎりのきわどい球を打ち返すことができた。そう、届かないかもしれないけれど、あと一歩、わずかでも一歩を踏みだしていこう。届かなくてもいい、踏み出さないでいるより、踏み出したほうが失敗したという後味の悪さを感じずにすむ。
思い切りがよかったからか、左右の卓球台縁ぎりぎりに打ち分けることもできた。球のくるところに速く着けば、そしてからだを球に近づければ引きつけて打てればいいリターンができる。

最後に、球を打ちあげてもらい、それをフォアとバックの交互で打ち返してメニュー終了。インコを思い、自分のこれからを思い、何かに打ち込めることのできる喜びと幸せを、明日がくれば今日は二度と帰ってこないから、今日一日を無駄にしないようにと、全力をこめて打った。コーチが、いい出来と表情をみせてくださったのがうれしい。

終わってからもうひとりのコーチと、今度はメニューにこだわらず自由に練習。ショートレンジの打ち合い、台から下がって強打。
2本のラケットを、2度の練習で使うことができたのがうれしい。

今日の新聞にこんな言葉が載っていた。
「植えられたところで花を咲かせよ」。英語ではBloom where you are planted。

いまここにいるということ。それには何らかの意味があるはずだ。不本意でこうなった部分もあれば自分の不徳のいたすところもあったと思う。いまできることしなければならないことがあり、人はそれぞれ神さまから、これをなしなさいと、生きるべき、生きていくべき場所を与えられる。
たしかに人生は思うようにはならないし自分の思う通りにはならない不条理なものだ。けれど何かを残すために、愛と信仰と希望をもって生きることがわたしたちにゆるされている。

いずれにしてもいまわたしが立っているところで自分という花を咲かせよう。すぐには咲かないとしてもいつかはかならず咲くのだと信じている。
わたしたちは神さまによっていのちを与えられ、一人ひとり自分の可能性という花を咲かせるためにいのちを与えられ生かされているのだから。
わたしはそれを信じあきらめない。
自分の可能性を信じ続けよう。置かれた状況が自分の本意ではないとしても、きっと神さまが導いてくださる。

お知らせランプ 障がい ウオークマン2008/10/17 23:22:00

しばらく電球の接続コードが破損してしまったために使えないままだった、光で知らせてくれるランプが直り、今日からまた職場のパーテーションに取り付けてみた。
これは10年以上前にワシントンDCを訪れた時に、アメリカの難聴者団体を訪問した記念にいただいたもの。ランプ本体かランプの周囲(だいたい1~2㌢くらい)をたたくと振動でランプが点滅するというつくりだ。
けれど問題がないわけではなく、わたしが気づかないときがあるということ。本体にバイブレーターをつなぐことができたら、振動とランプの両方でわかると思う。
実はそういう製品はすでに実用化されているのだ。高価なのと、オフィスなどでは使っている人がいない(はっきりいえば必要としている難聴者がわたしひとりだからだ)ために、いまだ使ったことがない。

ともあれ今日は職場の何人かの方にご紹介して、実際にランプをたたいてもらった。実物をお見せすることで、なるほど、こういうものなんだねと理解を深めていただけたらと思う。

公明「障がい者」表記を推進  
http://www3.nhk.or.jp/news/t10014783111000.html

昔書いたことがある。「障害」ではなく「障碍」あるいは「障がい」だと。害というと、わたしたちがまるで害をもたらす存在であるかのように受け止められる、と。
しかし理解は広がらず、一般の表記ではまだまだ「障害」としているところが多い。各自治体などで「障がい」と書いているところが増えているけれども。
当事者であるわたしたちにしてみれば、至極当たり前のこと。
いまごろになって、という思いとようやくここまできたか、という思いとである。

携帯プレーヤー長期・大音量で「聴力失う恐れ」欧州委
http://www.asahi.com/international/update/1014/JJT200810140001.html?ref=desktop

若いころ、携帯カセットプレーヤー、「ウオークマン」を使っていたことがある。まだ補聴器なしでも聞こえていたころだ。
ところが、恐ろしいことに知らず知らずのうちに音量を上げてしまうのだ。自分では大丈夫だ、問題ないよと思っていても、気づかないうちに音量を上げてしまうのだ。
メーカーも技術向上と、耳を守るためにさまざまな工夫をこらしていることは重々承知しているのだけれど、どうしても長期間大音量を聴いていると、聴力が低下してしまうというのだ。

ふと、空港の管制官や警察・企業などの電話相談担当、対潜ソナーを探知する潜水艦の乗組員などは、聴力を保つのはたいへんなことではないだろうかと、聞こえなくなってしまったらとさえ心配してしまう。
いまのわたしは補聴器をはずすと全く聞こえない。独りでいるときはもっぱら補聴器なしだ。
自分のからだを守るのは結局のところ自分でしかない。

鼻呼吸がすっきりして気持ちいい2008/10/18 22:25:33

こいつはいいな。鼻に張ったテープのことである。

特発性過眠症だということは前に書いた。
眠っている間の呼吸がよくないと、翌朝の目覚めはもちろん昼間の活動にも影響してくるらしい。
というわけで、服用している薬とともに、鼻にテープを張ってみることにした。

「鼻孔拡張テープ」。登録商標はブリーズライト、Breathe Rghtという。

眠る前に鼻骨の下を両側から指でつまんで、呼吸ができなくなるところに張ると、通気がよくなるらしい。鼻孔を広げるためだから空気の通りがよくなるわけだ。実際、張ってみると呼吸しやすい。鼻呼吸がすっきりして気持ちいいくらいだ。

こんな感じでとりあえずしばらく続けてみよう。
薬は来週切れる。医師に薬とこのテープを併用したことを伝えて、結果診察をうけたい。