恵みの分かち合い2008/10/14 21:07:43

ふつう、どこの教会でも礼拝は大人が仕切っているものだ。あるいは大人と子どもは別々に別れるか、大人の礼拝の前に教会学校なり子どもだけの礼拝を持っているところが多い。
ここ、新発寒教会は収穫感謝祭の礼拝を牧師と子どもが進行を担当する。たとえばさきに挙げたプログラムにあった、食事・交わりのときにこどもさんびか137を歌った。
各家庭でとれたり収穫したりした果物や農作物を捧げる。
こどもさんびか137の歌詞はこうだ。

  神さまに感謝しましょう ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ
  神さまはよいものを下さった ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

歌詞中「よいもの」とあるのを自由に変えてもよい。実際、礼拝では子どもが、目の前に並んだりんごだとか大豆だとか塩だとかを掲げてアドリブを促すと聴衆も合わせて歌う。
子どもは聴いている者、従っている者というのではなく、礼拝に参加している者として扱われている。地方の小さな教会だからできるのかもしれないが、いったい礼拝はだれのためにあるのだろう。大人、役員や年配者が仕切るものだろうか? 教会にいる経験や社会経験が豊富な人が礼拝を仕切るのだろうか? メッセージを語るのは牧師であるけれど。

こういった礼拝はざん新でもあり新鮮でもあり、礼拝について考え直させるに足るものだ。

前日引用した聖書に戻す。
新共同訳の、つまり現代日本語の聖書に直すと、穀物収穫にあたっては、畑の隅々まで刈り尽くすな。落ち穂さえも拾ってはいけない。ぶどうも摘み尽くしてはいけない。落ちた実も拾い集めることを禁止している。
もっと大きなことは、ただ禁止するのではなく、落ち穂も、落ちた実も、残ったものは貧しい人たちや旅行者のためにとっておきなさい、とすすめていることだ。余りものをしかたないから贈るのではなく、めぐむのではなく、困っている人たち貧窮している人たちと、自分たちの収穫を分かち合うためである、ということが大事なのだ。自分たちだけで収穫を独占するな、ということでもあろう。

先日、バナナダイエットについて書いた。以前はトウモロコシなどのバイオエタノールが問題になっていると書いた。
バナナにしてもトウモロコシにしても、あればあるだけ、ほしいならほしいだけ。
そうすると、土地がだんだん少なくなっていくかやせていくか、仮にこれらを増産しようとすると、さらに土地の開墾や畑にするための労力も必要になる。農業について経験がないけれど、簡単に畑も田んぼもできるわけではなく、半年とか一年とか、時間がかかるものなのだ。土質によっては農作物に向き不向きがありえるし、つくるに不向きな土地、農作物もあるだろう。
と、考えて突き詰めていくと、人間はどこまでも際限のない、終わりのない生産活動をしているのではないだろうか。とことん行きつくところまでいくと、最後には地球そのものが疲弊してしまうのではないだろうか、という疑問を抱かざるを得ない。とするなら、人類はイデオロギーや軍事力などのほかに、食糧生産や自然環境の保護をめぐってまた対立し、戦争をおこすかもしれない。
都会にいると、とかく食糧や農作物や魚、肉などは当たり前に手に入ると思いがちである。しかし地方に出てみると、そうではないということをまざまざと思い知らされる。

メッセージを聴き、賛美歌を歌い、地元の農作物でつくった豚汁やおにぎり、漬物などを味わいながら、この世界をおつくりになられた神、「わたしはあなたの神、主である」という最後の言葉に、わたしたちはどれだけ真剣にこたえているだろう。

思い出は尽きることなく2008/10/14 21:25:42

ありがとうパウロ
昨日、ペット病院に預けていた2羽のセキセイインコのうちの1羽、パウロと名付けていたオスが今日、ケージ下で横たわっていた。
人間に換算するとおよそ30歳。まだ生きられる年齢であった。

パウロが家に来たのは、まだうつ病からの回復期だった6年ほど前のこと。はじめから2羽だったけれど1羽は家を飛び出して行方不明、次に入れたのはケージにぶつかったか、首の骨が折れて死んでしまった。

思い出は尽きるどころかいまも鮮やかだ。
パウロははじめから、つまり幼鳥のときから家に来ていた。幼鳥用のえさを与えて元気に食べてくれたのはうれしかった。
わたしに慣れて、手乗りをさせようと手を出したら乗ってきたし、いたずらっぽくくちばしで手をつついたこともある。ふんを手に落とされても、怒る気にはぜんぜんなれなかった。頭より高く上げてもまったくこわがらず、元気に飛び回っていた姿を思い出す。最近のことでいえば、このあいだの朗読舞台の練習を聞いていたのか、口まねのような声をあげていたのをいまも忘れられない。

最後の晩、つまり昨夜はからだをふくらませ、いつも青か肌色の鼻が濃い茶色に変色していたのがとても気になっていた。目を閉じたり開けたり、いま振り返るといのちの炎を最後まで燃やそうとしていたのかもしれない。寝る前にケージに毛布をかけて下からのぞいたとき、パウロは目をしっかり開けて、りんとした姿勢でとまり木につかまっていた。「あんた、しっかりしなさいよ」とでも言いたげな、そんな気がしたのだった。

これで亡くした経験は2度目になるが、やはりつらい。
インコは平均10年だそうだが人の5倍年をとるという。とすると人間ならまだ30代だろうか。もうちょっと生きられたかもしれない。生き物だから限界はあるということは承知しているけれど。
とりあえず病理解剖に出して10日くらいで結果が分かるそうだ。
そのあとにペット霊園へ出し、後日連絡が来るという。

6年間、たくさんの思い出をありがとう。
いつかそっちへ行ったら、また遊んでね。