生きているということの偶然と恵み2008/09/18 22:45:42

突然だけれど、昨年の舞台「アンネの日記」から今回の「ほちょうき とりて」で、気づかされたことがある。それについて書いてみたい。

アンネは日記でこう書いている。

 どんな富も失われることがありえます。けれども、心の幸福は、いっときおおいかくされることはあっても、いつかはきっとよみがえってくるはずです。生きているかぎりは、きっと。
  (中略)恐れることなく天を仰ぐことができるかぎりは、自分の心が清らかであり、いつかはまた幸福を見いだせるということが信じられるでしょう。

「ほちょうき とりて」の出だしは、こうだ。

 わたしたちはどんなに健康であっても、いつ、突然耳が聞こえなくなるかわかりません。

わたしたちは、生きていることをあたりまえ、至極当然のように感じ、昨日があって今日があり、そして明日もあさってもある。そう感じている。
だが、いのちはいつかはこの世を去っていく。いつかは、誰もが。
 「アンネ」と「ほちょうき とりて」は時代も背景も異なる。一方は迫害と戦争におびえ、隠れ家で生活することを余儀なくされている。一方は、見た目だけではわからない、聴覚障碍について、コミュニケーションについて語る。
けれど、共通しているのは、生きていることはあたりまえではなく、恵まれているということではないだろうか。

 生者はその死(しな)んことを知る。然れど死(しぬ)る者は何事をも知(しら)ず、また應報(むくい)をうくることも重(かさね)てあらず その記憶(おぼえ)らるゝことも遂に忘るゝに至る
                        (旧約聖書 伝道の書 9:5~6)

生きている限り、いつかは富も、いのちさえも失われ奪われる時が必ず来る。けれど希望はある。こころの幸福は、いっとき失われたとしてもいつかはきっとよみがえってくるのだと。

昨年、今回と続けて、手話と朗読をすることになった。
これははっきりいってわたしの力ではない。わたしひとりでできたことではない。
講師、朗読仲間の理解支え、励まし。手話サークルや難聴者の仲間。手話表現にあたっては手話通訳士のご指導をいただいた。このどれか一つが欠けてもけっして舞台に立つことはできなかったと、舞台を目前にしたいまもなお、信じて疑わない。

一方でわたしはこうも思う。厚顔無恥、誇大妄想、身のほど知らずといわれることだろうけれど。

会社や仕事はもちろん大切なこと。しかしそれ以外の場でも生き生きと生きたといえる何かを残したい。仕事オンリーの人生で終わりたくない。
アンネの日記から引用するならば、「わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること! その意味で、神様がこの才能を与えてくださったことに感謝しています。このように自分を開花させ、文章を書き、自分のなかにあるすべてを、それによって表現できるだけの才能を!」

聞こえない耳と普通に話せる口を、手話とからだ全身をフルに使って表現したいという思いを与えてくださったことを! 才能があるかどうかはわからない。しかし舞台に立つ、表現すること、書くことが何よりも好きだ。この好きだというものを与えられたことを、神さまに感謝したい!

ふたつの朗読の最後はそれぞれ、こうだ。

 でも、それでいてなお、顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです……いつかはすべてが正常に復し、いまのこういう惨害にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界が戻ってくるだろう、と。

 わたしたちはけっしてひとりぼっちなんかじゃありません。
 わたしたちはいつもどこかでつながりあっています。
 わたしは耳が聞こえません。それでいいのだ。 

そう、きっと、いつかかならず、静かな世界が戻ってくる。
聞こえなくても人間として、誇りと尊厳をもって生きられる社会がくると。