誰も見ていないかもしれないけれど2008/09/09 21:52:34

たまにではあるけれど、聞こえる人の集まりに参加して、食事や酒を囲みながらすごすことがある。

といっても、正直言ってつらいと感じることが多い。
話の内容がわからない。ホワイトボードで筆談してくださる方がいて、不慣れなのにもかかわらず、ほんとうに感謝している。けれど話し言葉で進む会話の内容を知って、それが自分にも興味ある話題だったり話せることだったりしても、筆談して内容を知った後では、もう終わってしまって次の話題に移っている、なんてことはしょっちゅう。礼拝でも説教を要約筆記してくださるのだけれど、書いた内容と話す内容がずれてしまい、追いつかない。ましてお酒がからんでいると、せっかくの盛り上がった気分をわたしひとりのためにぶち壊してしまうのも、気がひける。
というわけで、話がわからなくても、あいまいであっても、作り笑顔で「うんうん」と言ってしまう。場に合わせてやりすごす。そうやって過ごしてきた。
それが、日本的なというか「和」を保つためと自分を無理やり飾りつけ、周囲からの誤解や偏見から自分を守るために着る、サイズの合わない、まるでフットボールヘルメットやショルダーパッドにジャージのようなものだといっていいかもしれない。サイズが合わなくても着るしかほかにないんだ。自分を守るためなんだから。

でも、とふと考えてみる。
だからといって逆に、酒の場や会議で、自分に合わせろ、自分のために会話のペースを落としてほしい、などというのはどうだろう。
自分がそうであるように、まわりにもペースがあり、話したいことがあり、場面場面を大事にして会話を進めていく。
自分中心に合わせろというのは、マイノリティーだからゆるされるエゴであってはならない。いいかえればわたしひとりが聞こえないからといって、聞こえる人に自分を押し付けるのはどうかと思うのだ。

だから、パーティーや居酒屋などの場で、情報保障がなかったとしても、困るなあ苦痛だなあとは思うけれど、必要以上に要求はせずに、雰囲気を楽しむこともこころがけたい。

自分を押し付けたり主張したりせずとも、どこかでだれかが見ているんだよ。そんなふうに自然体に思えるようになってきた。
肩ひじ張ってみても、疲れるだけ。誰も見ていないかもしれないけれど、神さまはちゃんとみている。

聞こえる人と聞こえない人のあいだに、残念だけれど壁は現実にある。
けれど、だからといって対立関係におくのではなく、ふつうに接してほしいし聞こえる人とふつうに接したい。

朗読の舞台でも、いい意味でリラックスしつつ、伝えるようになりたい。
さ、また練習練習。