ほんとうの勇気2008/07/21 15:28:27

今年のメジャーリーグは、昨年のワールドチャンピオン、ボストン・レッドソックスを、同じアメリカンリーグのタンパベイ・レイズが追いかけ首位争いをするなど、面白い展開になっている。フロリダ州タンパにあるスポーツチームではNFL、タンパベイ・バッカニアーズが割と強いチームとして知られているが、フロリダ州はあまり野球が盛んな土地柄ではなく、どちらかというとアメリカンフットボールの人気が高い。大学のマイアミ大学ハリケーンズ、フロリダ州立大学セミノールズはNCAAカレッジフットボールのナショナルチャンピオンに輝いている。プロでも同じフロリダ州マイアミにあるNFLマイアミ・ドルフィンズは日本でもファンの多い強豪チームだ。それだけにメジャーリーグのチームが活躍するというのは十分ニュースに値する。

時をさかのぼること13年前。
一人の日本人プレーヤーが海を渡って日本プロ野球から去っていった。
野茂英雄。
大阪の成城工高校から新日鉄堺をへて1988年のソウル五輪に野球日本代表として出場、銀メダルを獲得。翌年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団、90~93年シーズンまで4年連続最多勝。翌年95年にロサンゼルス・ドジャースに入団。13勝6敗で新人王。96年の対コロラド・ロッキーズ戦、2001年のボストン・レッドソックス在籍時にボルティモア・オリオールズ戦の2回、ノーヒット・ノーラン。ドジャース時代のナショナルリーグ、レッドソックスのアメリカンリーグの2度、ノーヒットノーランを達成したのは史上4人目。

ひじのけがなどがありながらメジャーリーグ復帰を望み、今年08年シーズンにカンサスシティー・ロイヤルズでプレーしたが一度も勝利を挙げることなく、戦力外通告を受けて去就が注目されていた。
そのNOMOが現役引退を決めたという。

彼からサイン、オートグラフの入ったボールをいただいたことはついにかなわなかったのだけれど。
1995年9月25日、ロサンゼルスのドジャースタジアムで、対サンディエゴ・パドレス戦を観戦に行った。午後7時5分試合開始とチケットにある。
そのときだったと思うがドジャースタジアムそばで2ドル50セントで売られていた、ゲームプログラムと1996年にロサンゼルスへ行ったときにやはりスタジアムで購入したイヤーブックが、いまとなっては貴重な宝になっている。写真は野茂がドジャースタジアムで投げている表紙の「Dodgers MAGAZINE」だ。メジャーでは投手なら、その日の試合に登板する投手を表紙にする。だからこの雑誌は野茂が登板したことを示す。

引退のニュースでは野茂が公の場に姿を現すことは一度もない代わりに、HP上で心境を明かしている。
「自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだ」と。「プロとしてお客さんに見せられるパフォーマンスができない。同じように思っている球団も多いと思う」。さらには「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、ぼくの場合は悔いが残る」とも。

すごい発言だ。
これだけをみると未練がましい、将来また選手として復帰するのではないかと思えるが、ここまで自分の気持ちを言える、その勇気に敬服するのだ。
普通なら野茂が言ったように「悔いのない野球人生だった」で終わるだろう。彼は違う。「悔いが残る」と。あれだけの実績を作り、多くの日本人選手がアメリカでプレーできる土壌環境をつくり、夢でしかなかったメジャーの世界が身近になり、試合をテレビや現地で観戦することまで可能になった。それほどの実績がありながら、きれいごとやとりつくろったその場の美しい言葉ではなく、真っ正直に気持ちをさらけだしたのだ。

なかなかこうは言えない。誤解を招くかもしれないけれど、正直に胸の内を明かした。その勇気にこころから敬服する。
われわれは試合を見ることがあっても、実際にフィールドに立って一緒にプレーすることなど夢のまた夢、それがどんなに厳しく難しい世界であるかをよく知っている。その厳しい世界をへてきた本人が言うのだから、経験したこともないわれわれが何を言えるだろう。
と同時に、われわれもいつかは現役をやめる日が来る。悔いが残るとは言いたくないけれど、そう言っても恥ずかしくないように、日々のできることにどれだけ力と思いを尽くしたか。
野茂さんにはおつかれさまでした、同じ時代に生きて同じ空気空間をともにできたことを感謝します、と。

胸いっぱいに息を吸ってう~んと伸びをするように両手を高く伸ばし上げ、背番号がみえるくらいにからだをひねって投げた、トルネードと呼ばれたあの豪快なフォームを、わたしは一生忘れない。