遠回りのようだけれど2008/05/14 23:38:20

3日間、気温が15℃以下という寒い日から、今日は夕方には雨がやんだ。明日は晴れるらしい。

裁判員制度に障碍者が選ばれた場合について、最高裁は視覚障碍者や聴覚障碍者に対して裁判資料の点字翻訳や審理の手話通訳、要約筆記などの支援を行っていくことを決めたのだそうだ。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080514-OYT1T00391.htm?from=main2

そうなるとたとえば手話通訳者や要約筆記者は、これまで以上にたいへんな立場におかれるであろう。もともと通訳や要約筆記で知りえた情報を他者にもらさないことが決められているけれど、人の一生を左右する、あるいは重大事件の審理にあたっては、これまで以上の慎重な対応が求められる。死刑などという場合、そのプレッシャーは大きい。
そういったことへの、通訳者に対する心理フォローも、欠かしてはならない。

社会、とりわけ労働現場では障碍者の雇用について、いくつものハードルがある。これまでにも書いたように情報保障一つとっても簡単ではない。
教会でも同じで、経験や理解がないと、わたしたちが声を上げたり訴えたりしても、わがままと受け取られてしまい、行き場がないことが多かった。
教会こそそういった現実社会のようであってはいけないと思うのだが、なかなか難しいものだ。

声を上げていかなければ、一歩も前進しないし変わらない。
だが、自分に合わせてほしいというのではなく、障碍者に対するさまざまなサポート体制ができてから、それに対する教会全体への理解と協力を求めるという方向でいきたい。

自分が変われば周囲も変わる、と常々信じている。
自分の苦しみを声高に叫ぶだけではなく、こういう問題が解決されれば、教会は生きやすい、通いやすいよ、ということ。それに対する理解を求めるというように。

遠回りのようだけれど、これが確実な方法だね。
自分を見てほしいのではなく、キリストがともにおられる教会だからこそ、キリストをともにみるようでありたい。