甘いのはお好き?2008/04/11 23:14:51

やせるという目標をもっているのだが、医師からすすめられていることのひとつに、缶コーヒーを極力少なくすること、とある。一日1本。あとはお茶にすること。

というわけでお気に入りのドリンクをカメラに収めてみた。
緑茶はからだにいいので、できるかぎりとるようにしている。
問題は缶コーヒーだ。

今日購入した、2つのそれはいずれも新製品らしい。ここ数年、缶コーヒーのトレンドというか特色として糖分を少なくするということがあるらしい。飲んだ瞬間甘ったるく口が砂糖だらけでべたつくような感じのものが多く、飲みたいと思えるものが少なかった。
写真は左から「ルーツ」「ワンダ」というブランドのもので、「ルーツ」は微糖、「ワンダ」は糖類ゼロ、をうたい文句にしている。
だがのんでみたのは「ルーツ」だけ。これは他社の缶コーヒーで微糖とうたっているものと大差ない。「ワンダ」はまだ口にしていないが、もしこれが糖類ゼロだというのならとてもいいのだが。

好みは個人差があるから、ある人にとっては甘いものがいいという人もいれば、嫌いだという人もいる。また同じ甘さの程度でも、甘みを強く感じる人もいるだろうし、感じない人もいるだろう。

いちいちこだわることはないけれど、スッキリ飲みやすいものがわたしにはちょうどいいようだ。

ワイワイ楽しんで食べた2008/04/12 23:59:26

昨日、月島でもんじゃを食してきた。
ワイワイ言いながら(わたしはホワイトボードを使って筆談をお願いした)みんなと一緒につくり食べるひととき。わたしもやってみろ、と言われてもんじゃ焼きに挑戦してみた。結果は、まあまあ。周りの人たちが「おいしいよ」と言ってくださったけれど、でもこれは隣にいた同僚がわたしのあまりのへたさを見かねてか、手伝ってもらったものだ。自分ひとりならあそこまで手際よくつくれたかどうか、自信がない。

昔、自宅近くの公園に紙芝居のおじさんが来たことがある。なにをやったかはもう忘れてしまったけれど、おじさんが乗ってきた自転車の荷台に、せんべいだとかお菓子だとかがあって、薬のような調味料だかなんだかをつけて食べた記憶がある。

もんじゃ、焼きそば、お好み焼きをみて遠い昔のそんな記憶が甦った。
「黄金バット」だの「のらくろ」だの、紙芝居で聞かせる物語とは別に、大勢の人と一緒にワイワイ楽しんで食べた、せんべいの味がもんじゃと重なったのだ。

いまはもう見かけなくなった、紙芝居のおじさん。
懐かしく、楽しかった思い出である。

おしゃべりが楽しい2008/04/13 22:13:51

礼拝後、都内であった難聴者団体の会議に出席してきた。
会議も、終わってからの居酒屋に場を移してのおしゃべりも、とても楽しかった。なにがって手話で話せるから。

しかしまだまだ自分のレベルは低いなと思う。ついつい手だけではなくからだも動かしたり、大きな動きになってしまったり。

手話の世界は楽しく、奥が深い。

想像力2008/04/14 23:34:07

個人的な文書、ここでもわたしは「障害者」とは書かずに「障碍者」と書いている。別のところでは「障がい者」と単語登録をしておいた。昔書いたことだけれど、「害」というたった一字に強い嫌悪感を抱いたからだ。

最近のニュースでもよく出てくる「後期高齢者医療制度」。
75歳以上の全員を対象に独立した医療制度を創設し、保険料を新たに本人から徴収する。保険料は原則年金から天引きする。で、今年年明けから対象者に「後期高齢者医療被保険者証」が届いたというのだ。

しかし正直言って、マスコミも最近になってようやく報道するようになったのであって、この制度ができたおととしからの報道が不十分だ、という指摘もある。
なによりもこのネーミング、「後期高齢者」という名称に、抵抗があると訴える声を、投書欄などでよく読む。「後期」という言い方にまるで「あんたたちはもう先々ないからね」と人生の末期と宣告されたような気分になった人が多かったのだろう。余談だが、新聞を読むとき、ニュース記事や社説を読むのが大切なことはいうまでもないが、市井の人たちの声や思いを知る、考えるという観点から、投書欄を読むことも忘れてはならない。同じごく普通の人が何を、どう考えているのか。ニュース記事だけが社会の動きを伝えているわけではない。市井の人の声や存在も、社会を動かし社会をつくっているからだ。

「後期高齢者」という表現は、以前ここで書いた、ろう学校を「特別支援~」とするという話にも共通項があるのではないだろうか。お役所といえばそれまでだけれど、ごく普通の、ごく当たり前に生きている、世の中の人がどんな思いでいるか。どんなことで怒り、悲しみ、喜んでいるか。それを想像し、考え、できるだけ寄り添って考えているかいないか。もし自分が「後期高齢者」「障害者」と言われ、マイナスな存在、生きていても意味がないと思われかねない立場におかれたら。そういう意味ではない、という考え方意見もあるだろうが、自分は「そうではない、そういう意味ではない」と思っていても、生きていても意味がないと受け取るかもしれない人たちへの想像力を思いめぐらすこと。それが大事ではないだろうか。
75歳以上を年齢で分けるために「後期高齢者」という用語が使われてきたのだそうだ。けれど年齢で区分していいのか? という素朴な問題意識やひいては疑問、嫌悪感、をなんらもたないことこそがおかしいとわたしは思う。卓球を見ても、70歳以上でもバリバリ現役のプレーヤーがたくさんいる。わたしなんか、まだまだヒヨっ子だとしかみられないときさえある。そんな人たちに「後期高齢者」とは失礼千万ではないか。

世の中に影響を与えたい、なにかを伝えたいと志をもっている人はみな、エリートばかりではない。優秀な、五体満足なひとばかりではない。
障碍があっても、はたからみれば欠けの多いかもしれないが、なにか光り輝いているものをもっているはずだ。
社会がそうした人たちをもっと生かすようであってほしいとおもう。障碍者を雇用する企業や団体が増えてほしい。わたしたち障碍者も甘んずることなく、チャレンジしていこう。

「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」という言葉を思い出す。

   この世の子らは、己が時代の事には光の子らよりも巧なり。
                        (文語体、ルカ傳福音書16:8)

悲しみと喜びと2008/04/15 23:37:34

出勤して、パソコンを起動させているあいだに、お茶と缶コーヒーを購入するため社内の売店に行く途中、何げなく掲示板に目を通してみたら、ある訃報が掲示されてあった。

その人とは、いまの職場に移る前のときから何度もお会いしたことがあり、あいさつだけではなく、立ち話ながら込み入った話もしたことがあった。温厚な表情で、いつもあいさつをすると笑顔で返してくださったのが忘れられない。

定年退職されてからご病気だとうかがい、昨年末には一時退院されたと聞いていたのだが、亡くなられたという。驚きしばし絶句した。

夜に以前住んでいた区の難聴者仲間がひらいている手話教室に出席、休憩合間のバカ話も交えながら手話で楽しくおしゃべりを楽しんできた。バカ話をするわたしを遠目で見ていた、要約筆記のみなさんがお腹を抱えて笑っていた。うん、笑われるのはいやだけれど笑ってもらえるのなら、冥利に尽きる。

そのあと、仲間と駅近くのレストランに入って食事をした。
いろいろな話題がでて、さらにお互いを知り合えることになったのではないかと思う。

死。
悲しいことだけれど、いつかはわたしもそっちの世界に行くことになる。わたしだけではなく、いま生きている誰もがいつかは、この世に別れを告げなければならない。

昨日のここで、「後期高齢者」「障碍」といった用語やそれに対する社会の鈍感さというか姿勢について疑問を書いた。
わたしたちは、ついつい自分がいつまでも健康でいて、元気でいられると信じて疑わない。けれど生があるということは、いつかはその終わりがくるということだ。つまりわたしたち誰もが等しく、有限な存在であるということなのだ。時間においても能力においても。ただ、限られているということを自覚し意識しながら、その限られた生を豊かに生き、遺していくことはできる。

聞こえない、話せる、わたしもまた、限られた生を生きたい。
いつの日か主イエスのみもとに帰る、その瞬間まで。

25年もたったの?2008/04/16 23:21:21

初めて東京ディズニーランドに行ったのは、社会人になってまもなくのことだった。当時人気だった、映画「スター・ウォーズ」の名場面をもとにした「スター・ツアーズ」というアトラクションを見たくて、一緒に行く人もいないのに長蛇の列に加わったのを覚えている。

その後もロサンゼルス、ハリウッドにあるユニバーサル・スタジオに行ったけれど、両者のねらい、コンセプトが正反対であることに驚いたり納得したり。アメリカのそれは映画の世界を再現する、あたかもその場にいるようなリアルさが売り物だというのだろう。日本のそれは、夢というか実際に体験するというより、アニメや映画の世界を夢として、楽しむという感じではないだろうか。たとえば「バックドラフト」のように本物の火災セットを目の前にして迫力を感じるのもあっていい。しかしミッキーマウスや映画の世界、ディテールを感じるというのもあっていい。

ちょっと異なるけれど、アメリカンフットボールをとりあげてみる。
毎年2月に開催される、NFL(National Football League)のチャンピオンを決めるスーパーボウル期間中、会場となるスタジアムのそばで、フットボールの世界を体験するアトラクションがある。その名もズバリ「スーパーボウル・エクスぺりエンス」。わたしはまだスーパーボウルを生観戦したことはない。生きているあいだに一度は観戦したいものだが、このアトラクションでは、フットボール、プロ選手のすさまじい世界をだれでも手軽に安全に楽しめる。たとえばボールを持って走るランニングバックが、前後左右あらゆるところから受ける強烈なタックルの衝撃を、参加者に実際にボールを持って走らせて(衝撃は本物ほど強くはないけど)どれだけのプレッシャーの中を走っているか、とかクオータバックと同じように遠投や的に向かって正確に投げられるかを競うイベントがある。また、プロ選手が実際に使ったり身につけたりしているヘルメットや防具を着ることもできるコーナーもあるとか。
そう、つまり夢や楽しみではなく、リアルさを前面に出している。フットボールが身近なアメリカだからこそ受けるイベントなのだ。
これを日本でそのままやっても、どうだろう。身近ではないだけに、接する機会としてはいいだろうが、実際にやる、という意欲をかきたてるには、なかなか難しいのかもしれない。しかし、夢やあこがれ、だけで人が集まるというのも、よほどねらいや企画設定がしっかりしていないと、ただの空虚な世界を見せるだけにしかならないのではないか。

どちらがいい、というのではなく、どちらにもそれぞれの楽しみがありひかれる部分があるのだ。
ただ25年にもわたってこれだけ社会や文化に与えたという意味で、ディズニーランドの影響は大きいだろう。そして日米それぞれの、テーマパークに対する考え方や視点から、両国の違いを感じさせられるのだ。

やっぱり生きた球でないと2008/04/17 23:03:24

卓球練習の日。
いつもより人が少なかっったけれど、何人であれ、人が来てくれると、とてもうれしい。

フォアやツッツキなどいつもの練習に加えて、今日の目的はバックハンドのラリーを続けること。ひじを支点に返すこと。
ラケットを返すことはできたけれど、ひじをうまく使うまでにはいたらず。

まだまだ練習が必要だと言うことだ。

ともあれ生きた球を打てたことが一番の収穫かもしれない。

いやあきつかった2008/04/18 23:08:49

昨日から降り続いている雨はいっこうにやまないどころか、けさは風も強くて、乗り換えの駅へ歩いているあいだに突風が吹いて、おもわずからだごと飛ばされるかと感じたほど。
仕事のあいだは、肩こりをなんとかしたくて、席を立ったりストレッチやフットボールや水泳の練習のつもりで肩を動かしたりしていた。あんまりにも痛いんで、仕事が終わってからマッサージに行ったけれど、痛いのと気持ちいいのと。眠くなるわ。無口でいるから、施術が効いていることは分かったと思うけど、ともあれいやあきつかった。

帰りの路上で撮影したのが、これ。

明日も午前中まで雨らしい。

雨は止んだけれど2008/04/19 09:34:36

朝起きて外に出る。遠くに青空が見えるけれど、こちらはまだ雲がたれ込めている。出かけたら風が強くて、とてもじゃないけれど洗濯物など干せるわけがない。吹っ飛ばされそうなくらいだ。

午後から朗読、夜は手話サークル。

朗読では自分に言い聞かせるような読みかたを指導していただいた。内に向かってというのか、外に向けてこれでもかこれでもか、という一本調子ではない読み方。難しいがやりがいがある。

手話サークルでは他己紹介。自分を他人に紹介してもらう内容。笑いあり、なるほどと思ったり、あっというまの90分だ。

説教が聴きたい2008/04/20 23:03:54

昔まだ聞こえていたころ、ラジオ付きヘッドホンで礼拝説教を聴きながらメモを取っていたことを思い出す。いまの教会では、隣に座った方に書いていただいた説教を読みながら聞いている。説教全文をそのままメモにするのはたいへんな作業労力がいるのだということをまず理解したい。そのままメモにするということを言い換えるなら「即時性」というべきだろう。

要約筆記者に聞いてみれば分かると思うけれど、話し言葉をそのままメモにするのは、話し手の話すスピードにもよるが、熟練者でも全文を採録することは至難の業だ。
話し言葉は、普通には1分間に300字~350字くらいだといわれる。それに対して書く速さは、1分間に60字~70字だという。とすると、とても全部は、書ききれないことになる。ましてわたしの教会では、要約筆記についての経験も知識もないなかで奉仕してくださるのだから、本当に頭が下がるし感謝しなければと思う。だが、失礼ながら字が読めなかったり、話している内容から遅れたりしては意味がない。書く上ではなにも毛筆のような楷書だとか達筆でなくてもいい。技術的には要約するために略語・かな書き・記号を使う、などの工夫が必要だ。
たとえば、マルコによる福音書なら、マルコ(「福音書」はいらない。なぜなら福音書でマルコといえばマルコ福音書だけだから)、創世記なら創だけでも十分だ。詳しく知りたいならあとで聖書を開けばいい。「~であるでしょう」という言葉もそのままでなくても「~である」で止めてもいい。

しかし、問題がある。
わたしの住んでいる区でも手話通訳者や要約筆記者の派遣制度があるが、宗教に絡んだ場合は基本的に派遣が認められない。公費だから当然でもあるけれど。冠婚葬祭でもなかなか派遣は難しい。
教会によっては手話通訳者がいるところもあるけれど、これはまったくのボランティア。よって派遣費も通訳料も出ない。あくまでも善意でしてくださっていることだ。

派遣制度の趣旨から考えると宗教関係への派遣が難しいことはよくわかる。しかし、教会内、教団内で手話通訳者や要約筆記者を養成できないものだろうか。あるいはとりくんでいるところはないのだろうか。

正直言って、情報保障のある教会がほしい。