新しい朗読2008/04/05 09:56:43

いまさきほど、コメントをいただいた。とても貴重な、有意義なコメントだったのでご返事を差し上げようと思っていたのだが、間違えて削除してしまった。何度か修復を試みたが戻らない。
せっかくコメントをいただいたのに、たいへん申し訳ないことをしてしまいました。本当に申しわけありませんでした。
コメントをいただいた方がまたこれをお読み下さったら、恐れ入りますが、またコメントをいただけませんでしょうか。
ご迷惑と不快な思いをお与えしましてまことに申しわけありませんでした。
次回、いただいたときには必ずアップいたします。

さて。
今日から、また新しいテキストで朗読が始まった。
ラブドラマがテキスト。角田光代さんの「だれかのいとしいひと」と「誕生日休暇」のふたつだ。

世の中には実際に、誕生日をはさんで休暇をくれる会社があるらしいが、誕生日休暇をひとり、ハワイで送るはめになった女性。一週間のローテーション通りの決まった生活に慣れていたのが、あてのないままゴーストタウンのような、ハワイのある街で休暇を送ることになった。
男性心理から見るとちょっと理解しがたいところもあるけれど、それはそれでなるほど、こういうものなんだと知らない世界を知る、そんなゆったり落ちついた気持ちで接してみたい。

これが終わればいよいよ、発表会に向けた取り組みが始まる。
何を読もうかまだ決めていない。音楽と手話つき朗読、できたら映像も入れたいと思っているが。

あらためて。
コメントをおよせ下さったにもかかわらずたいへん失礼をしてしまい、まことに申しわけありませんでした。
あらためていただければ幸いに存じます。

コメント

_ 一健聴者として ― 2008/04/06 18:49:44

健聴者です。
素朴な疑問です。
という出だしの投稿を指してますか?それなら私ですが、突っ込んだ質問で不快でしたら、再度の投稿は控えます。

_ スマイル ― 2008/04/06 22:31:32

一健聴者としてさま

こんばんは。スマイルです。

このたびはたいへん失礼をしてしまい、まことに申しわけありませんでした。
削除してしまったコメントは、ふたつ。うち、「健聴者です。 素朴な疑問です。」で始まるものがひとつでした。

削除してしまったのは、わたしの操作ミスで、意図的に削除したわけではありません。操作する前に全文を拝読しまして、なるほど、こういうお考えもあるのだと、建設的な話ができるのではないかと思ったのです。まったく不快だとは思っておりません。

まことに恐れ入りますが、再度の投稿をいただけませんでしょうか。
こころからお待ちしております。

スマイル

_ 一健聴者として ― 2008/04/07 00:00:21

細部の表現は覚えてませんので悪しからず。

聴覚障害児特別支援学校で手話を教えていないことは知らなかったのと、私自身も周囲も健聴者であるため実情は知らず、あくまで私のこれまでの人生で培った多少の知識と乏しい興味とに照らし合わせて疑問に思ったことを書きます。
疑問は主に二つ

・その種の学校でありながら手話を教えない事は健聴者の私からみてもおかしいと思いますが、日記を拝見したところ行間から「残された聴力を使っての訓練」が昔の遺物でよくないもののように書かれていると感じました。一方、社会の大多数を占める健聴者とのコミュニケーションに困難があることの苦痛もこちらのブログには書かれています。
疑問は、「手話を教えないことで子供の可能性を奪うというのなら、残された聴力による話す訓練を悪いものと決め付けるのも子供の可能性を奪いかねないのではないか」というものでした。子供たちが社会で、大多数の人たちとのコミュニケーション手段を得られ、人生に更なる幅を持たせるならその訓練は素晴らしいのではないかと思います。
かなり厳しい訓練とどこかで聞きましたが、わずかに残った聴力を研ぎ澄ます訓練をしたことで、実際に話すことを覚え、後に手話も覚えて聾と健聴者の橋渡しをしたミスアメリカもいるようですし。
当然ですが、これはそれぞれの障害の状態と意見を尊重することを前提にしています。

・途中からフランスの学校が引き合いとなり、文末には「日本語を禁止されたら」という仮定がありますが、実際に聴覚障害児特別支援学校で生徒が手話を使った場合、生徒は何か不利益を被るのでしょうか?禁止という言葉にはそのような含みがありますので、そんなことがあるのかと驚きました。教えないけど使うことも止めないのか、それとも教えもしないし使わせもしないのでしょうか。

大多数の人は自分の事を強者だとは意識していないと思います。
単に障害者との接点がなくて興味の度合いが低いか、どのように接していいかわからないだけだと個人的には思います。

関心の低さや(ニュースで報じられた北海道の医師の偽装事件でさえ、多数の人はすぐに忘れているでしょう)、私のような無知が罪と言われればそれまでですが、興味の範囲や環境は人それぞれだし、どんなに社会的な意識を高めても、全ての社会の問題を把握するのが不可能である以上、ある程度はやむを得ないと割り切った上で物事に取り組んだほうが現実的です。

「強者」「強制」という表現を使われているところから、手話を使う人だけでどこか殻を作り出しているような印象を受けました。
問題があるのもわかるし、困難にあったこともあるだろうと察しますが、切口上ではなく一歩踏み出してくれればこちらも輪に入りやすいし、私達も世界が広がると言うもの。
多くの人と接して研鑽を積みたい、世界を広げたいと思う人はたくさんいると思います。そこに障害の有無はあまり関係がないと思う人も多くいるはず。

以上が先日投稿した疑問です。重ねて言いますが、これは単なる疑問と私見であり、不快にさせたいわけではありません。
ただ、この疑問は私以外のこのページを見た健聴者も疑問に思うのではないかとも思います。
失礼があった場合、それは私の無知から来ているもので悪気はないとご理解いただければ幸甚だです。

_ スマイル ― 2008/04/08 01:14:51

一健聴者としてさま

スマイルです。
長文のコメントをおよせ下さいまして、まことにありがとうございました。あらためて長文をおよせ下さいましたことをこころから深く感謝お礼申し上げます。

順を追ってお答えしたいと思います。
「手話を教えないことで子供の可能性を奪うというのなら、残された聴力による話す訓練を悪いものと決め付けるのも子供の可能性を奪いかねないのではないか」

わたしは特別な発音訓練を受けたことはなく、親から話しかけられたり新聞や車内吊り広告を読んだりして覚えたことを記憶しています。が、重度の聴覚障碍児者、ろう者と話していて、イントネーションや発声がスムーズではない方もいらっしゃいます(わたしも自分をそうだと思っているのですが)。それがつらく苦痛である人もいるのです。
たしかに社会に出る上で、健聴者とコミュニケーションをとることができるなら、人生にさらなる幅をもつことができるなら、その訓練はあってすばらしいことです。
しかし、聴覚障碍児者、ろう者、皆が皆話すことを強制されるのはどうかと思います。自分が生き生きと過ごしやすく、コミュニケーションがとれる方法、多様なコミュニケーション手段が保証されていることが、学校の場でも重要だと思いますが、いかがでしょうか。

次に「聴覚障害児特別支援学校で生徒が手話を使った場合、生徒は何か不利益を被るのでしょうか?」というご質問です。
手話を使うな、できるだけ話すようにしなさい、ということを教えられると思います。
手話を使うと、聞こえない人、ろう者や難聴者だけでまたまってしまい、聞こえる人とのコミュニケーションが身tにつかなくなるから、というのが理由です。昔は手をはたかれたそうですね。あ、はたくという表現は「たたく」という意味です。手話を使っているのを見たら手をたたかれたという体験談をきいたことがあります。手を使わないようにと、抑圧されるということ、それが不利益でしょう。

さきに「自分が生き生きと過ごしやすく、コミュニケーションがとれる方法」と書きましたが、手話を使って自分たちが豊かにコミュニケーションがとれるなら、手話をつかったほうがよいのではないでしょうか。
それを、社会に出る=聞こえる人と合わせる=話し言葉をまず覚えなさい、というのはおかしい。ろう者や難聴者の言語であり文化でもある手話を否定されることは、極端化もしれませんが生存を否定されることではないか。長い間手話を認めてほしいと運動を続けてこられた先人たちの思いがあります。

疑問については、以上でお答えになりましたでしょうか。

わたしももし聴覚障碍者に生まれなかったら手話を身につけることはなかったと思います。聞こえる人と同じように話せて、しかし重度の難聴だということは、しんどいけれど、いろいろなものを気づかせてくれた。このブログを通してこうして、みなさんと対話ができたこともそうです。
おっしゃるとおり、大多数の人は障碍者とどう接したらよいのか分からない、接点がないか興味がないかのいずれかでしょう。
先日も、お店で食事をしていて、お店の人の話が聞こえず、途中で話をやめました。食事がおいしかっただけに、後味悪い思いをしました。たぶんお店の人はわたしとどう接したらよいのかわからなかったのでしょう。

ある程度はやむを得ない、これも納得できます。自分中心に回っているわけではありませんから、異なった人と共生していく上でそれが現実的なことですね。

一歩踏み出しているのです。聞こえないながらもろう者や難聴者は「聞こえない」という障碍と向き合い、分かりにくいというバリアに向かって一歩踏み出しています。
でも、聞こえる人も、どこかで「こいつなんかに言ってもわからないよ」という態度でこられると、身構えてしまうのです。職場でそういう経験をしたものですから、いまでもそういう人を見るとフラッシュバックで苦痛を覚えます。

一歩踏み出してくれたら、とおっしゃられましたが、一歩踏み出しても、さきのお店での体験のように、あきらめなくてはならないこともあります。

一歩踏み出して、とおっしゃると同時に、障碍のない人も、一歩踏み出してもらえたら、うれしいですね。


昔に比べたら、手話を使っていて指を指されたり好奇心や哀れみをもってみられることがなくなりました。
手話通訳の方も増えています。まだまだ県や地方によっては手話通訳者が少ないところもあるのですが。

長くなりました。
一健聴者さんとこうして対話ができることを、こころからうれしく思います。ほんとうにありがとうございました。
疑問を出してくださったこと、またお感じに成られたことをそのままありのままに書いてくださったことがうれしいのです。けっして不快になったとは思っていません。

誰だって分からないこと、分かりにくいことがあります。
しかし、わたしはわたししか経験できなかったこと、わたしが経験できたことを含めて、聞こえる人にも聞こえない仲間にも、知ってもらえたらと思います。わたしがかわいそうだとかつらいよ、と押し出すのではなく、こういう経験をしたらこんなことがあったよ、と。できれば喜びを伝えたいと思っています。

あらためて、ありがとうございました。

スマイル

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