バリアを壊したいと思うなら2008/02/01 23:46:18

今日から2月。ついこのあいだ正月だと思っていたのに、つくづく月日のたつ早さを実感する。

先日書いた、講演会での要約筆記についての、その後。
手話通訳・要約筆記団体と、わたしの在住している区の福祉課それぞれに派遣をお願いして、今日要約筆記者の派遣のめどがたった。
手話通訳・要約筆記団体、区の福祉課、要約筆記者の受け入れを認めて下さった会社のみなさまに、こころから深く感謝とお礼を申し上げたい。

たしかに動くのはたいへんなことだったが、まずやってみないことには始まらない。
だが、要約筆記者も手話通訳も、まだまだ一般的には認知が低い。逆に言えば聴覚障碍者の情報保障が完全にはなされていないという現実でもある。
今回わたしが動いたことで、会社の中に理解者ができるかもしれないし、そばでみていて「こういうことなのだ」と認識理解ができるかもしれない。
たったひとりの行動がどうなるかわからないけれど、これを機会にいつかは手話通訳者も受け入れを認めてもらえるようになればと思う。
わたし自身も、理解者を得たい、増やしたい、バリアを壊したいと思うなら、自分のなかにあるバリアを壊さなければならない。
こういうことだ。聞こえないからできない、ではなくてどうやったらできるか、可能になるかを自ら探っていくこと。そして自分の障碍に甘えずに、自分ができることをしっかり確立していくこと。
障碍ゆえに甘えるのではなく、障碍ゆえに取り組むこと。

さきはとてつもなく長くけわしく高い。

自分らしく 自分の存在をたしかなものに2008/02/02 22:17:22

新しい月に入って最初の土曜日。そう、朗読と手話サークルの日でもある。

その前に、朝7時に起きてわたしは、ある映画を見に行ってきた。
『中国の植物学者の娘たち』(原題:LES FILLES DU BONTANISTE CHINOIS)という、中国を舞台にしたある物語。

1980年代の中国。
両親を亡くし孤児院で育ったミンと、父である封建的な植物学者チェンに従って生きているアン。湖に浮かぶ植物園で出会ったふたりは、かけがえのない人を見いだした喜びから、ひそやかに愛を育んでいった。だがチェンが、アンの実兄、タンとミンを結婚させようとする。
封建的な男尊女卑社会ではアンとミンは周囲から白い眼で見られた。お互いがお互いを必要とし、「わたしの貞操はあなたに捧げる」と誓い合ったアンとミン。アンは、ミンがハネムーンでタンからせっかん暴行を受けたことを知る。
2カ月後。早く妊娠するようチェンはミンをせきたてる。
アンとミンは温室で薬草を蒸し、癒しあった。ある夜。薬を飲もうとして、温室で生まれたままの姿で癒しあうふたりを目撃したチェンは、ミンに手を上げようとしてアンに殴られ心臓発作を起こしてしまう。

人民裁判所に連行された、ふたりは極刑を宣告される。
ミンが孤児院の院長に書いた、最期の手紙には「山の寺院の仏塔に、わたしとアンの遺灰を合わせ、湖にまいてください。そうすれば安らかに眠れます」。僧侶と院長が遺灰をまく場面で終わる。

この作品をどうみるだろうか。いろいろな思いが去来した。
男尊女卑、結婚と出産が第一であり、女性は男性に従っていればよいと、自由を否定される。結果、生殖や出産に結びつかない同性愛は否定される。そして同性愛だとわかれば、極刑が待っている。

映画のプログラムによれば、現在の中国では同性愛は違法になっていないという。中国現代用語で「同志」(トンチー)とよばれる、同性愛者のサイトが多数あるという。
もうひとつの問題、死刑について。2006年のアムネスティー・インターナショナル調べでは、中国・イラン・パキスタン・イラク・スーダン・アメリカで90%を占める死刑執行数の約6割が中国だという。昔、「ニューズウィーク」だったか、公開銃殺刑の写真を見たことがある。町中をトラックに乗せられて引き回され、屋外運動場で後ろ手に縛られ、数人の官吏に捕まられて後ろから銃殺されるというものだった。いまは国際的な批判があり、薬物による処刑もあるという。
昨日、また日本国内でも3人の死刑囚が刑を執行された。

同性愛や死刑の問題はまた機会を別に譲りたいが、今作をみて、わたしはアンとミンの愛をけっして違法だとも不自然だとも思わなかった。たしかに裸になって抱き合う場面などはあるが、いやらしさを感じなかった。人と人が互いの存在をこころから求め合う愛の物語として見た。しかし、社会の中には、まだまだ同性の愛を不自然なものと見る考えがある。それもまた、わたしは認める。

愛は愛する者ふたりだけの問題であり、同時に周囲への問題でもある。
同性同士の愛を、生殖やモラルに反するとして、排除抑圧してきた歴史過去がある。悲しいことだけれど。
しかし愛するふたりの強さは誰も引き離すことができない。引き離す立場にないのではないだろうかと、思う。と同時にそれほどに強いからこそ、周囲との摩擦や苦しみも覚悟しなければならない。愛とはたたかいでもあるのだ。

現実には理想といわれるだろう。愛などありはしないと言われるかもしれない。自分たちだけのためではないかと。
けれど、純粋ゆえに許されない関係のなかで激しく、その純粋な愛を貫いたという意味では、異性愛と何ら変わるところはない。

愛とは、自分らしく。自分の生きた意味を存在をたしかなものにするためにあるのかもしれない。自分のすべてをなげうってでも誰かのために生きたいという大きなエネルギー。自分を愛するのと同じように、ほかの誰か、聖書でいうなら隣人を愛する。自分だけに向けられたエネルギーが周囲へ向けられる。見返りも利益も求めない。周囲をも巻き込むほどの大きなものなのだ。

変化したい2008/02/03 21:05:16

昨晩ニュースの天気予報を見て、今日の気温が3度とあったのには「おや?」と思ったものだが、けさ起きてみていやぁビックリプトン(意味わかる? 笑)。出がけにカメラで撮影した中から一枚をアップする。これくらいの雪はわたしの故郷ならあたりまえの話で大騒ぎすることもないのだけれど、内地の人にはやっぱり大事だろうね。ニュースでは青梅で開催予定だった青梅マラソンが中止になった。12年ぶりのことだという。予備日を設けていなかったから中止と決まったという。同じようにわたしの教会のある街でも、今日、マラソンを開催する予定だった。が、見ての通りの状況では実施できるはずもなく、中止が決まったらしい。

さて今日は、ルカによる福音書を学んだ。22章1~30節である。
礼拝後の学習会で、輪読するつもりだったのが、わたしだけが文語体聖書を使用しているために続かないと、この文語体聖書の同個所をわたしだけで読んだ。以前にも書いたけれど、現代日本語も悪くないが、格調高い文語体聖書を読むと、シャンと身が引き締まる思いがする。

もうすぐ「灰の水曜日」にはいる。
福音書を読んでいて、イエスの弟子たちが師であるイエスをどう理解していたか、師の言葉をどう受けとめていたか、最後の最後に晩さんをともにするときになっても、弟子たちはイエスの言葉を都合よく、あるいは自分たちの願望のためにしか受け取り理解していなかったふしがある。

『この酒杯は。汝らの爲に流す我が血によりて立つる新しき契約なり。されど観よ、我を賣る者の手、われと共に食卓の上にあり、實に人の子は定められたる如く逝くなり。されど之を賣る者は禍害(わざはひ)なるかな』
                                (20~22節)

これを聴いたとき、弟子たちはいったいなにを言っているのかわからず、ひょっとしたらボカンと口を開けていただけかもしれない。ユダヤ民族にとって重要な過越の祭のときだというのに、この人はいったいなにを言っているのだろう。そんな気持ちだったかもしれない。

やがてイエスが処刑され、弟子たちはてんでバラバラに離散してしまった。自分たちもローマ帝国に反逆したとして逮捕されるのを恐れた。
だが、そんな彼らが再び集まり、キリスト教を伝えていく。

今日の集まりでわたしは、「変化したい」と言った。
弟子たちほどではないにしても、自分が変化したい。変わり成長していきたいと。
だがまだまだ未熟至らない者である。

自分の方向が間違いなく正しく確信を抱いていれば、自然とおのずと向こうから扉を開くように、変化が訪れてくるのだろう。
しっかり焦らずにまた明日からの歩みを続けていこう。

未来ではなく過去から2008/02/04 23:31:51

NFLの2007年シーズンチャンピオンを決める、第42回スーパーボウル、ニューイングランド・ペイトリオッツ対ニューヨーク・ジャイアンツ。
前半の低いスコアから一転二転、第2クオーターにリードしたニューイングランドの攻撃を抑えた第4クオーターで再逆転したニューヨークが攻守をしのぎきって、17-14で勝利。シーズン通して無敗をめざしたニューイングランドの野望を打ち砕いた。
最高の結果である。

さて。ようやく帰っていま、これを書いている。
仕事が終わってからの2時間、要約筆記者を同伴して「認知療法」についての社内向け講演会を聴くことができた。

一口で言うなら、自分の思考方法のずれゆがみを直していく、ということだがなかなか自分の思考パターンや日々のできごとの受け止め方のずれやゆがみは直せない。人のことは理解したり批判したりできるかもしれないが、自分のそれは直視しにくいということかもしれない。
だが、書いてみること。たとえば職場の上司とそりが合わない。仕事に失敗した。そういうとき過去にどうしたか。どうやって克服したかしなかったか。自分の歩みといまの思いを書いてみることで、内観につながるのではないだろうか。

もうひとつ感じたこと。
今回の講演会は社内向けであることは何度も書いたが、さらに言ってしまうと、聞こえないのはわたしだけなのである。難聴者が聞こえる人とコミュニケーションをとるとき、聞こえない、聞こえなかったことをすなおに言えなかったり言わなかったりすることがある。「ここで言ったらとんちんかんな結果になるのではないか」「相手にいやな思いをさせてしまうのではないか」などと、先を読んでしまうのだ。先を読むというとまるでいまはやりのKY(空気を読む)ではないが、ついつい場に合わせようと無理をすることでもある。それがますます自分を苦しめてしまう。
正直に書くと、わたしは幼少時に聞こえなくなってからずっと聞こえる人の中で育ってきた。教会でも学校でも家庭でも。社会に出てからもそう。そのなかで聞こえる人に合わせようと、着慣れない服を着て自分を抑えて、聞こえなくても相手に合わせようとしてきたのだ。多数者である、聞こえる人ばかりの中で。
講演会の中で「上司や職場の人に、抱えている問題やトラブルがあっても言えない」という状況設定があった。聞こえないわたしにも直面する問題である。
今回の講演会は多数者である聞こえる人向けであったかもしれない。社内の少数者である障碍者、難聴者にはこの「認知療法」はどう取り組んだらよいのだろう。どうしたら苦痛を感じることなく、仕事ができスムーズに過ごせるだろう。そんな問いを感じたのであった。

仕事の中でこんな言葉に出会った。スティーブ・ジョブズの言葉。
「未来に先回りして点と点をつなげて見ることはできない。できるのは過去を振り返ってつなげる事だけ。
バラバラの点であっても将来それが何らかの形で必ずつながっていく」
いまあるのは過去のできごとがあったから。つらく苦しいこと、うれしく飛び上がりたくなることの積み重ね、蓄積があるからなのだ。
いいことも悪いこともあったし、これからもそうだろうけれど、きっと未来には幸せが。生きていてよかったと叫びたくなるときがきっとくる。
また明日から、明日という一日を結びつなげていこう。幸せな未来のために。

久しぶりに職場の同僚と外食2008/02/05 23:17:05

暖かい一日。三寒四温が続いたあとに春がやってくるのだろう。

今日は昼食を久しぶりに同僚と、築地へ移動してとることができた。
あまり誘われないし誘えないのだけれど、昼食をとろうと外に出たら追いかけてくださった。

誘われていったところは、雑居ビルの中にある、喫茶店。
カレーライスのほか、麻婆豆腐もある。お気に入りのメニューだという麻婆豆腐とコーヒーをわたしもたのんで、食事をしながらしばしの歓談にはいった。

ま。
たま~にこういうことがあると、とても心が温かくなる。

ヒヤリ!2008/02/06 23:34:42

「おわ! 危ない!」。出がけに危うくぶつかるところだった。
コンビニを出て職場へ向かおうとしたときのこと。ドアを開けて一歩踏み出したところへ、前方からやってきたご高齢の女性が乗っていた自転車と危うく衝突する寸前だったのだ。たいしたことはなかったからいいようなもの、もし一瞬でもタイミングがずれていたらどうなっていただろう。というのも立ち寄ったコンビニは前が狭い歩道である。視覚障碍者のための点字ブロックがある、ごく普通の歩道であるが、幅が狭く、人2人も横に並んで歩くとぶつかってしまうのだ。

よくみると、そんな狭い歩道を自転車が行き交う光景に出会う。
最近の自転車の乗り方には問題が多い。
前後に子どもを乗せて3人で走る。携帯電話で通話やメールを打ちながら走る。携帯音楽プレーヤーを聴きながら走る。たばこを吸いながら走る。

実はわたしも自転車では苦い経験がある。
小学生のころ住んでいた、マンションの周囲を猛スピードで走っていたとき、ご年配の男性にぶつかった。指にハンドルをぶつけてしまったのだが、こっぴどく怒られた。自分の不注意なのだから怒られて当然だ。もうひとつ、2人乗りをしていて交番の前を通って警察官に呼び止められて説教を受けた。

子どものとき、母が前後に子どもを乗せて自転車をこいでいた。転倒事故を防止するため、子どもにヘルメットの着用をすすめるようだが、そのころは子ども用のヘルメットなど思いも考えもしなかった時代だ。たまにヘルメットをかぶらない親子をみると、大丈夫かなと不安になる。
まだ補聴器を外しても聞こえていたころ、携帯音楽プレーヤーを使っていたこともあるから、聴きながらという気持ちはわからないでもない。けれど聴きながらで、はたしてどれだけ自分以外の周囲に注意を向けることができるだろう。メールや通話をしながら、音楽を聴きながら、人や車の接近に気づけるだろうか。たばこは……。人とぶつかったときにやけどをさせていいのだろうか。昔JR船橋駅構内で子どもの目にたばこが当たって大やけどを負ったという事故を思い出す。
聴覚障碍者としては、接近されてもベルが聞こえない。前からならある程度注意を向けられるけれど、後ろからだとわからない。不意打ちをくらったようで、とても危なくて自転車が接近するとこわい、という聴覚障碍者が多い。

自転車に乗る側にも言い分はある。
道が狭いから車道に出られない。ご高齢の方には車に乗れなくとも自転車が大事な手段である人もいる。

警察は今後、自転車を乗るにあたって、携帯電話や音楽プレーヤーを聴きながら、子どもを前後に乗せる、などという場合、罰金を含む厳しい対応をするらしい。
一律に処罰するのは、問題ではないだろうか。やはり当事者の事情をよく聴いてからにしてほしいと、市民のひとりとして思う。

そもそもは自転車は車道を走るのが基本だ。だが自動車との事故があるなどで歩道を走るのが多い。そんななか、都内のある区で試験的に車道に自転車専用道路をつくったという。新聞記事をみると車道との区切りのガードも設置されている。
自転車と歩行者が安心して安全に行き交いできるためには、どうしたらよいのか。行政もわたしたち利用者もともに考えてみたい。

いつの日か彼らの思いを2008/02/07 23:53:14

今日、聴覚障碍・手話に関する本を数冊購入した。そのなかの一冊、『沈黙のヒロシマ SILENT HIROSIMA』にひかれたのである。

1945年8月。6日に広島、9日に長崎に、人類初の原子爆弾が投下された。わたしも広島にはこれまで4回ほど。長崎も1回訪れた。
その広島であの日をむかえた、ろう者に手話を交えてインタビューをし、聞き書きをもとにまとめた本である。モノクロ写真も含めて224㌻、3200円の高価な本だが、ろう者があの日以後どう生きてきたか、雄弁に語っている。
帯にある文を引用してみる。

「ろう者にしかわからないヒロシマがあった。彼らの雄弁な手話は被爆とその後の人生を克明に証言している」

数日前の報道で、2月1日にイラクで自爆テロがあり、知的障害者の女性に爆弾をもたせたものと伝えられた。別の報道では自爆テロを志願する若者が少なくなり、この知的障害者の女性は自爆テロだと知らされていなかった可能性があるとも伝えられている。

事実とすれば、人間の正気とは思えない。どんな理屈理論を持ってしても正当化できるものではない。やりきれないだけではない。激しい怒りを隠しきれない。
イスラム教徒は、イスラム教の指導者はどう考えているのだろうか。

世界はいっこうに平和の道筋が見えない。
しかしいつの日か戦いが終わる日がくる。そう信じたい。
もしその時に生きていられるなら、イラクやアフガニスタンなどの彼の地へ渡り、聴覚障碍者がどんな思いで生きてきたかをききたい。いつの日か彼らの思いを世界に発信したい。
アメリカもイラクも、同じ人間が生きている国だから。

『沈黙のヒロシマ SILENT HIROSHIMA』 仲川文江・尾崎孝 著
    3200円   文理閣

Wings to Fly2008/02/08 23:09:47

気のせいかな、久しぶりのめまいを感じた。歩きながら少しふらついてしまう。

今日は仕事の後で、いつも行く電器店のCDコーナーに立ち寄った。
先々週の休みを利用して、カノンという女性シンガーのアルバム「Primary Flowers」を探していた。新聞マスコミによれば、Amazonでしか手に入らないという話だったけれど、それでもどこかにあるだろうと、まず初めに立ち寄ったCDショップに注文した後日、ファクスで「メーカーが今後の製造も販売も予定はない。よって入荷もありません」という返事を受けていた。そんなこともあるだろうと、同じ日に初めに立ち寄ったCDショップとは別に、このアルバムを注文していたのだ。もしふたつ同時に入荷していたらまあそれはそれでダブルブッキングだけれど購入するつもりでいた。

このカノンというシンガーについて、実はわたしはまったく知らないのだ。
だがCDについているカードによると、聖歌隊出身者だという。それならゴスペルも日本の歌も洋楽も歌いこなせる、相当の実力を持ったシンガーなのだろう。
アルバム「Primary Flowers」のなかに、手話ソングでもやったことのある名曲「翼を下さい」の英語バージョンがある、ときいたのが、購入したいと思ったきっかけだ。
原曲が日本語の歌で外国語になっているものはいくつもあるだろうが、わたしがCDで持っているのは海援隊の「思えば遠くへきたもんだ」の英語版バージョンとイルカの「なごり雪」韓国語バージョンしかない。

さてこの「Primary Flowers」に収められている「翼を下さい」の英語バージョン。タイトルの訳は「Wings to Fly」。
英語詞はおおむね原詞、オリジナルの意味を正確にとらえ表現している。
そのなかでもっともひかれたのは次のくだりだ。

So high up in the air
With feathers bright and fair
Nor wealth nor power can make
My heart filled with such joy

どんな富も権力も わたしのこころをそれほど満たしてはくれないでしょう

とてもいいメッセージだと思う。
オリジナルの詞にはないくだりだが、だからこそ「翼を下さい」というタイトルの意味が、そして歌全体のメッセージがここに集約されていると感じる。

さらに挙げるなら、聖書のメッセージとも重なってくる。
マタイによる福音書6章16節からはじまる、イエスの言葉が重なってきこえる。「人は神と富の両方に仕えることはできない」。
カノンは聖歌隊出身者だそうだが、キリスト教ということを前面に出していないこのアルバムの中で、しっかりとメッセージを伝えている。
実に魅力的な珠玉の作品である。

「Primary Flowers」 Kanon SICL110 ソニー・ミュージック・ジャパン

VHSビデオが壊れた!2008/02/09 22:48:16

このあいだの第42回スーパーボウルは、アメリカでの視聴率がスーパーボウル史上1番目だった、アメリカ国内のテレビ番組全体でも2番目だった、などと報道された。ロースコアの前半から第4クオーターに二転三転した試合展開が、人々をテレビの前から離さなかったのだろう。
わたしはこのまれにみる激戦を実は録画することができなかった。ふり返るととても残念である。

毎年スーパーボウルはビデオに録画しているのだけれど、ビデオが故障してしまったのだ。ビデオテープの用意も済ませてセットしようとしたら、テープが入らない。どうやらビデオデッキ部分が故障したようだ。BSチューナーは問題なく見ることができるので、あの試合も見るだけなら問題はなかった。
……放送中は仕事だから生テレビ観戦などできるわけがない(笑)。

DVDディスク、寿命に格差 数年から「永遠」まで
http://www.asahi.com/business/update/0209/TKY200802090125.html?ref=desktop

昔はVHSビデオがたくさんたまって足の踏み場もない(?)くらいだったのが、数年前に購入したDVDプレーヤーで、すっかりDVDにはまってしまった。昨年のわたしの朗読舞台も、卓球や手話ソングダンスの練習のためにと購入したDVDカメラなしには保存できなかった。まして字幕を入れるなんて。
ところが、記事によるとDVDディスクには国産から海外産まで、規格や機能にバラツキがあるらしい。しかも場合によっては保存が半永久どころか数年しかもたないものもあるという。CD-RもDVDも、データ保存は永久に保存できるというのがうたい文句だったはず。記事を読んであれあれ? といぶかしくなったのは言うまでもない。
さらに、DVDの後継といわれる次世代DVDも、ブルーレイディスクとHD DVDの争いがある。
いまのところわたしはいまあるテレビにそのまま地上波デジタルやCS・BS放送が見られればそれで十分、とテレビ本体は買い替えるつもりはない。従って、VHSデッキが壊れたいま、買い替えるとしたら地上波デジタルやCS・BSが視聴可能なDVDレコーダーしか考えていない。
さて、どうするか。次世代DVDなど先々の見通しをいまはおいといて、いまあるDVDディスクが見られるものにするか。先を見ながら決めるか。

ちょっとしたハムレットの心境である。

マイはし携帯ケース2008/02/10 22:01:25

以前にもここで書いたことがあるけれど、できるかぎりエコ、環境に気をつけたいと思う。
15年前だったか、職場で食事のときにマイはしを持っていったことがある。当時からすでに森林伐採が問題になっていたし、当時職場の食堂はまだ割りばしを使っていた。大量の割りばしを目の当たりにして、疑問を感じていた。が、周囲は冷笑するばかり。おまえ一人が割りばしを使わないからってたいしたことはあるまい、などけんもほろろ、ミソクソにけなされたものだ。

その後も機会あるときにはしを持ち歩いていたのだけど、プラスチックのケースを使って、カチャカチャ音がするのはうるさい。揺らしたショックでケースの角が割れたこともある。
いろいろやってみた末に、つい先日、新聞記事に布製のはしケースが紹介されていたのをみて、さっそく購入してきた。
新聞記事の影響は大きいね。店員にきくと、わたしが訪れる前にも、多くのお客さんが買い求めに来たのだという。おかげで赤色は売り切れたのだそうだ。

購入したはし携帯ケースは、木綿製。水玉模様のデザインで、入れるはしの長さ太さに合わせて袋を巻き、さらにひもを巻いてはさみ込んで留めるだけのシンプルな作りだ。陳列棚にあった見本に一膳はいっていたが、さらにはしが二膳入れられる。江戸時代以前の人たちもこんなものを使っていたのではないかと想像してみた。
写真を見るとはしの先にキャップがついている。
これは、はし先にかぶせるポリプロピレン製だ。はしだけだと使って汚れたものをしまうのに抵抗を感じるけど、キャップがあるから袋に汚れがつかない。キャップは開いて洗うことも可能だ。おまけにはし置きにも使える、一石二鳥の便利なものだ。ただ、袋に一つしかついていないので、わたしは予備のはしの分も追加して購入した。

洗うとき、石けんを使うのが気になる。そんなときは水洗いして少し干してからにするか、ウエットティッシュを使うか。

ちなみに、はし袋のカラーは3色。茶・青・赤で価格は税込み1050円。
問い合わせはカトウ誠商(03-3863-1184、平日のみ)のほか、都内ではプランタン銀座、木糸土新宿ミロード店で販売されている。はしキャップは157円。黒、白、ピンクの3色。東急ハンズで扱っている。