大人になるということ2008/01/14 23:23:17

今日は成人の日。昔は15日だったけれどいまは14日に。高校時代、NHKの「青年の主張」に参加して、3年生のときに札幌圏だけでラジオ放送されたのが唯一の思い出である。NHK札幌放送局のスタジオでしゃべった経験は一生忘れられないだろう。

ひるがえって幾何十年がたった(笑)いま。
昨年、「KY」という言葉が話題を集めた。KY(空気=K)が(読めない=Y)を指すのだという。空気が読めないを略しているのだとか。ほかにもいろいろ略語(といっていいのかどうか)があるのだそうだ。昨年の世相を見ていて、「KY」だなと思える人やできごとがあった。それはそれとしてなるほど、と思ったけれど。

さかのぼって、10年以上前だったか、若者の恋愛事情を書いた文の中に、傷つくことを恐れるという話があった。つまりこうだ。自分がふられたり断られたりするのはもちろんいやだけれど、そういう傷つく状況を避けているというのだ。

どうだろう。
空気が読めない、つまり場の雰囲気や環境や状況を察知して的確に発言したり行動したりできないひとを陰で略語をつけて批判するのと、10年以上前の、傷つく状況を避けているというのは、どこか似通ってはいないだろうか。

わたしも例に漏れず、どちらかというとKYなところがないではない。聞こえないことも理由だろうけれど、自分が自分がという傾向があったのもたしかだ。
また恋愛についても、この年でもうそんなことはないだろうと思うが、若いときはふられた経験や一方的に思いを寄せた経験があって、いま考えるとある種の自己陶酔のようなところがあったかもしれない。

10年以上前の状況から、「KY」までの流れを見ていて、コミュニケーションの世界が大きく変わってきたのも背景にあるのではないだろうか。
たとえばこのインターネットやメール。いながらにして声を介することなく文章でやりとりができる。昨年オランダとドイツからメールを送信した後で日本から「初めてのメールだ」と驚き喜ばれたように、もはやメールなしにはコミュニケーションが成り立たない。10年以上前は(^o^)などの顔文字が多く、まだ少なかった「絵文字」がある。わたしもメールで使うことがあるから例外ではないけれど、メールで済ませるとか、直に顔を突き合わせるとか、もっと血の通ったコミュニケーションが減ってきているのかもしれない。

肉体に傷をつける、つまり暴力や犯罪、たとえばドメスティックバイオレンスだとか家庭内虐待などは論外だけれど、もともと恋愛にしろそれ以外にしろ、異なった者同士のあいだに多少のあつれきやトラブルがあるのは自然なことである。それを忌避したり陰湿ないじめに転嫁するのではなく、異なった者同士がどうやって理解し合えるか。それはメールなどではなく、長い時間をかけてじっくり育てていくしかない。

最近わたしは思う。
昔は自分が自分がと、周りが悪いのだと周囲を非難したり責めたりしていたけれど、自分があるべき方向に向かってまっすぐ歩いていき、自分が正しいと信じて自分を変えようとしていれば、そのうち自然と周りも変わっていくのではないだろうか。どんな場面や状況であってもだ。
もちろん社会的問題は生半可、一筋縄ではいかないから必ずしもそれが通用するとは言い切れないけれど、「KY」などと陰湿な言葉を使うよりも、ずっとゆったり自然体で、何ものも恐れずに歩いていける大きな力になるに違いない。