クロサワ2007/12/11 23:01:54

最近、黒澤明監督の作品がリメークされている。テレビでも取り上げられたほか、いま公開されているのは「椿三十郎」。主演の織田裕二さんはあまり時代劇という感じがしないのだけれど、新しい境地にたどり着いたのかもしれない。

昨日の「だんだん」でザ・ピーナッツなど双子の歌手を紹介したけれど、どう考えてもオリジナルを知っている世代からすれば、比較されるのはしかたない。スポーツなどほかの世界でも、トップに立つということは、まして偉大な選手の記録を破るなどというときには比較されるのがあたりまえである。

今回の「椿三十郎」もオリジナルのクロサワバージョンを知っている世代からすれば「見たくない」と言う人もいるかもしれない。しかし、オリジナルと新しい作品を並列に見るのではなく、異なっている部分に込められた、クリエーターであり演出を試みた監督や俳優の意図を探ってはどうだろう。前作はどんなに工夫をしても乗り越えられない高い壁だと多くが言っている。それは事実だけれどそれにチャレンジした人たちの努力もまた、認められるべきではないだろうか。

と書いて、「スーパーマン」シリーズを思い出した。
故クリストファー・リーブさん主演のシリーズ4作、とくに第1作から2作は最高のできだった。3作目からなんとなくコミカルな部分ができて、好きになれなかったが、終始クリストファー・リーブさんは真摯に演じ続けてきた。
昨年見た新作「スーパーマン」は、スーパーマンのフライングシーンがCGなどコンピューターで加工されていて加えて、あまりにもスピード感を強調しすぎたものだから「いくらスーパーマンでもあんなスピードを出して、目が回らないか、墜落しないか」と心配になったほどだった(笑)。
しかしオリジナルのリチャード・ドナー監督の演出をうまく引き継いで、オリジナルのいいところを再演出、いわばオリジナルへのオマージュにしたともいえる。あえて引っかかった部分を挙げるなら、レックス・ルーサーの隠れ家のシーンに模型のB-29がつり下げられていたことだ。しかも広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」がモデル。垂直尾翼の機体マークや機首に描かれた「エノラ・ゲイ」の文字は、日本人としては好感が持てないが。

話をクロサワさんに戻す。
「隠し砦の三悪人」という、これも黒澤さんの名作がある。主人公が橋の上で斬り合う活劇シーンがあるが、実はこれはスター・ウォーズシリーズで何度も出てきた場面だ。「A New Hope」の第1作から「Revenge of the Sith」の第1部3作目まで、オビワン・ケノービとダース・ベーダー、ルーク・スカイウォーカーとダース・ベーダー、アナキン・スカイウォーカーとオビワン・ケノービが斬り合う。「Revenge of the Sith」で火山のなかで斬り合う壮絶な場面こそ、黒澤さんの作品の影響が濃く出ている。

長くなってしまったけれど、文化や時代を超えて、いいものが形を変えても継承されていく。
黒澤さんの作品を通して、いろんなことを感じる。実に黒澤さんの作品こそ、映画のみならず世界に誇る文化遺産だと思えてならない。

診察を受けてきました2007/12/12 22:51:34

休暇をいただいて、朝6時前に起き、都内のある病院へ、眼科診療と検査を受けてきました。何回かここでも書いた、上下斜視の診察のためです。

いつもならまず起きることのない、早朝。空気は冷たく空も晴れていない。外食で食事を済ませてから東京メトロを乗り換え、渋谷でバスにまた乗り換え。
居眠りしているオジサン。教科書を開いている女子高校生。バスではマフラー姿で談笑している女子高校生も。めったに乗ることのない時間帯ゆえに、妙に新鮮な気持ちがした。

検査は普通の視力検査と、透明なブロックをつないで表面を斜めに削ったような器具を組み合わせて片目をふさいだり、交互に器具をあてたり。おそらく斜視の度合いやら視野の狭窄やらを測っているのだろう。専門家にきけば教えてもらえるのだろうが、今日はそんな余裕がなかった。しかし自分のからだに関することだし、どういう意味があるのか知りたいと思う。
医師の診断では、手術によって斜視は治る。しかし物の見え具合、立体感はどこまで戻るかわからないという。
入院して手術を受けることに決めたが、驚いたのは手術当日に入院して翌日退院だというのである。あらら。まあ一週間も一カ月もかかるとは思っていなかったから楽といえば楽だけれど。

もうひとつ収穫があるとすれば、今回初めて手話通訳士をお願いしたことだろう。筆談でも、人によっては迷惑がられたり対応を受けられないことがままある。手話通訳士が一緒にいることでどんなに気持ちが楽になったことか。
今後予想される問題としては、手術時のコミュニケーションだ。麻酔は全身麻酔か一部麻酔かによって変わってくるだろうけれど、手術中まったく見えないとしたら、どうやってスムーズなコミュニケーションができるだろう。

ともあれ、長年子どものころから悩まされてきた肩こりや頭痛やさまざまなコンプレックスや苦痛が、解消あるいは軽減されるなら、たった一日の手術でもこれ以上の願いはない。

「偽」と「混」2007/12/13 23:44:54

今年も年末恒例の「今年の漢字」が発表された。
この「今年の漢字」は財団法人日本漢字能力検定協会が漢字の奥深い意義を伝授する活動の一環として、毎年年末に全国から公募されたなかから、今年一年を象徴する漢字を一年の世相漢字を決定しているのだという。
財団法人日本漢字能力検定協会「今年の漢字」のサイトはこちら。
http://www.kanken.or.jp/frame/whats.html

ちなみに今年2007年の漢字は「偽」と決まったという。同サイトによればその理由として食品偽装事件・年金や政治活動費、ゴルフ接待などの政界・官界の「偽り」・老舗や名門の土産店などで相次いで発覚した賞味期限改ざん・耐震偽装や人材派遣会社、英会話学校などの偽装。つまりは「何を信じたらよいのかわからない」ということだろう。

こうなってくると恐ろしいというかこわいのは、何も信じられないからというだけで社会や身の回りへの関心や注意が薄れたり遠ざかったりしてしまうこと。極端な話になると社会否定から社会を壊してもいいんだという方向へ走りかねない。さらには治安のさらなる悪化へつながることも。

わたしの選んだ2007年の漢字は、「混」。
「偽」ももっともだが、偽からさらに進んで、社会全体が混乱に入り始めているのではないかと思う。
たとえば「格差」という言葉と「品格」という言葉が流行した。本のタイトルにもなっている。収入格差、女性や男性、横綱の品格、というように。
たしかに格差のある社会になり始めている。その格差をいったい誰が生んでいるのかという問い。
一方で品格という、一見わかりやすそうであいまいな、誰もが納得できるものではない言葉がはやったのは、依ってたつ何かを求めているのではないか。収入だとか出世だとかいうものとは違った、貴いものをもちたい身につけたいと。しかし品格といってもある程度「こういうものです」と言えても、それが絶対なのか。普遍的なものだと言えるのか。

偽では、ブランドや社会的に高い評価を受けていたものが、あっという間に一瞬にしてそれらが地に落ちることを実感させられた。それによって失われた信頼を取り戻すのがいかにたいへんかということも。
混というか、混乱しているなかでいったい何が真実なのかわからない見極めにくい時代だけれど、それゆえに周囲に流されやすいのだけれど、ささやかでいい、ゆっくりと自分らしさという「真実」を確立していく生き方でありたい。それはたとえ高い評価を受けなくとも、地に落ちても死なない、「一粒の麦」になるのではないだろうか。

ヒーローはどこへいった2007/12/14 23:56:12

スポーツのテーマで何度も書いてきたけれど、今日という今日の記事はやりきれなさと怒りとを含んでいる。

メジャーリーガー、引退と現役選手あわせて80人以上が、なんらかのかたちで薬物を服用していた疑いがあると、薬物使用実態を調査したリポート「ミッチェル・リポート」が昨日(日本時間)報道された。そのなかには、ロジャー・クレメンス(ニューヨーク・ヤンキースほか)、エリック・ガニエ(ロサンゼルス・ドジャースほか)、ミゲル・テハダ(ヒューストン・アストロズほか)など日本でも知られた超一流現役メジャーリーガーのほか、レニー・ダイクストラ(フィラデルフィア・フィリーズ)、デビッド・ジャスティス(クリーブランド・インディアンズ)、モー・ボーン(ボストン・レッドソックス)といった引退選手も含まれている。

こうしてみるとメジャーリーガーに薬物がまん延しているなあと感じさせられる。
昔からスポーツ選手とドラッグ、薬物は切っても切れない縁にある、なかなか関係を絶てないといわれる。五輪選手しかり。

しかし。
やはりプロスポーツは夢を売る商売であり、子どもたちや社会にとってヒーローであるとも言える。わたしがプロフットボールやメジャーリーグの試合を観戦するのも、普通ではできないレベルゆえだからだ。いい年して、スタジアムに行って選手からサインをもらったり間近な席ですごいプレーを見せられると、長旅も時差もいっぺんに吹っ飛んでしまう。それほどスポーツ選手が与える影響は大きいのだ。

日本のプロスポーツ選手も積極的だけれど、アメリカではプロ、トップ選手であればあるほど、ボランティアなどの社会貢献運動が盛んだと聞く。それは高給ゆえに社会に対する責任があるからだ。そういった運動を行っているメジャーリーグやプロフットボールの選手たち。
だが今回のような薬物疑惑が取りざたされると、フィールドでの感動が薄れたり色あせたりしてしまう。それだけではない。薬物によって選手の身体をむしばむ影響にも目を向けるべきだ。

幸いにというか、日本人メジャーリーガーの名前はひとりも挙げられなかった。これは誇りに思っていい。
堂々と、己のからだと技術で大男たちと渡り合う。それこそが真のサムライである。

ヒーローはどこへ行った。

レトロブームと地下鉄2007/12/15 22:28:12

80周年オリジナルヘッドマークを付けた銀座線ラッピング車両
朝用事があって、渋谷駅へ行く。そのとき乗った東京メトロの銀座線車両が懐かしさを感じさせ、さっそく下車してお客さんが誰もいないのを確認してから撮影したのが、これ。きくと、東京メトロ80周年を記念した、銀座線ラッピング車両だという。

よく見ると、東京メトロのロゴマークではなく、東京営団地下鉄でもなく、東京地下鉄道のマークが入っている。リベットこそ本物ではなくペイントで塗られているけれど、車体のデザインはまぎれもない、東京で最初に地下を走った銀座線。
携帯電話のニュースサイトを見ると、日比谷線も近々レトロデザインの車体を塗装した列車を走らせるらしい。
東京メトロ「あの日の東京も、乗せている」東京メトロのサイトはこちら。
http://www.tokyometro-80th.jp/

80年の歴史の中には戦争があったし、高度経済成長もあった。バブルもあったし、いまわしい地下鉄サリン事件もあった。
そういった諸々の歴史をみつめながら、もう一度昔の車両に会えるなら、こんなすてきなイベントはない。

思いつれづれ2007/12/16 16:07:01

礼拝と集会を終えた、教会からの帰りのバスで。
席に着いてからいきなり、わたしの前に座っていた年配とおぼしき女性が先頭の座席に移った。どうやらわたしを避けたらしい。別に何かしたわけでも、会話を交わしたわけでもない。まったく知らない人だ。なのにまるで近寄るなと言わんばかりの、嫌悪感丸出しの、遠ざけるような態度をみせた。

一瞬怒気を浮かべたけれど、相手にしない方がましである。いきなりわけもわからずに一方的に避けられて理不尽な対応に腹立たないわけはない。が、そんな低レベルの人とまともに相手をするのは、こちらも時間と体力知力の無駄というものである。聖書にある「こころの貧しい人」という言葉を思い出す。聖書の語る本来の意味とは正反対に、差別とも受け取れる態度姿勢をむき出しにしたその女性の、心の低さを感じ、聖書がいう「こころの貧しい」とは反対の、そういう人と接したことで自分はどうありたいか。考えさせられた。

コミュニケーションでは幾度となくいやな思いや厳しい誤解などを経験してきた。
以前、ある聞こえる女性とお会いしたことがある。
事前に彼女に、わたしが重度の聴覚障碍者であることを伝えてあったが、いざお会いして、なかなか会話が続かない。女性は男性が一方的にしゃべることを好まない。反対に女性は自分の話を聞いてほしいものだ。
だから彼女にも、できるだけ聞き役になるように、話しやすいように、さりげなく接したつもりだったが、会話がすすまない。聞こえないということでどう話したらいいのか、測りかねているらしかった。
長い沈黙が、気まずい感情とともに続いて結局彼女と会ったのはそれっきりで終わった。

聞き役になりたいと、わたしは思っている。昨日の朗読仲間との忘年会でもバーで独りでいる女性にどう接したらいいか、という話題になってわたしは、さりげなく、押しつけたり圧迫感を与えないように話を聞いてあげたいと言った。

いまならどうだろう。はたして聞き役になれるだろうか。
しかし、できるだけ聞き役でありたい。たしかに聞こえないし、聞こえる人が相手であればなおさら、ギャップがある。聞こえないのに普通に話せるから、相手はつい、聞こえる人と同じように思ってしまう。
ギャップとジレンマは大きいけれど、自分の話を一方的にするのではなく、相手にとって楽しいと思ってもらえるような、こころをひらいてもらえるような会話ができるようになりたい。

仲間たちの前で2007/12/16 21:17:40

昨日、朗読クラスのミニ発表会と忘年会。終わってから夜は手話サークルの忘年会。2つもあって忙しい1日だったが終わってホッとしたところ。

ミニ発表会はまあまあ。2回の出番のうち、2度目でミスをやらかした。「枇杷の実」と読むべきところを「枇杷のビ」とやった。みんな気づかないふりをしてくださったけれど、わたしはもうあきれてものがいえない。朝日のア、サイタサイタ、サクラガサイタ……、イトー、ロボーノトー、ハーモニカ……と、かつての古い国語教科書を読んでいるかのような、基本的ミスである。

忘年会ではもっぱら聞き役というか、皆さんが楽しく団らんしているところを見ながら雰囲気を味わい楽しんだ。

移動して手話サークル。
ここで、今年9月22日の朗読舞台を再演した。あのときも何人か難聴の友人が来てくれたけれど、今回は実質難聴者がほとんどである。
できはよかったと自分では思っている。台本に目をあまりやらずにスムーズに演じた。

しかし終わってから、みなさんからいただいたご意見。スライドやOHPは、内容を理解するに役立ったと言葉をいただいた。
難聴者の情報保障としてつくったそのOHPが、字が小さくて読みにくかったという。字の大きさは14ポイントでつくったのが、それでも見づらかったという。もうちょっと、18ポイントか20ポイントくらいにして、OHPの枚数が増えるのはしかたないとして、見やすい工夫が必要だろうか。
もうひとつは、舞台のライトが暗くてわたしの手話も顔もよく見えなかったという。
これは部屋がもともと演劇を上映するための照明設定がない、普通の部屋だから限度がある。もし次回やるなら、もっと舞台に適した照明のある部屋が必要かもしれない。

ともあれ、聞こえる人たちに手話つき朗読、難聴者でも朗読ができるということと手話への理解が深まったかもしれない、前回と反対に、難聴者やろう者にも楽しんでもらえるパフォーマンスができた。

いつかまた機会があるなら。もっと多くの難聴者やろう者にお見せできる機会があるなら。
もっともっと練習をして、よりよい舞台をつくってみたい。

あと2週間2007/12/17 23:18:57

いろいろあった2007年も、あと2週間で終わります。
実にいろんなことがありました。あと2週間といういまも、世界では悲しみにくれている人がいて、街のクリスマスなどの喧噪を悲しみの中で迎えている人もいます。

突然に愛する人と永遠にこの地上、この星にいる限りは会うことができない。その悲しみ苦しみ。生を奪われた人たちも、どんなにか生きたかっただろうと思う。
生きているわたしたちはこうして会話を交わしたり文を書いたりしながら今日一日を生きられたことを感謝するべきである。
生を奪われた人たちはもう声さえ上げることができないのだから。

こころの底から笑顔でいられる2007/12/18 23:44:11

肩こりについては何度も書いた。
首廻りを冷やすのも問題あり。スポーツタオルをマフラーのように首に巻いて眠っている。が、なかなか肩こりがとれない。

今日は地域の難聴者仲間と、今年最後の手話教室に参加してきた。職場で手話を使う機会がないから、こういう難聴者のあつまりではがぜん、生き生きした表情になる、らしい。

自分らしくいられる場所。手話ができる。こころの底から笑顔でいられる。

まねをしていいものと悪いもの2007/12/19 22:57:30

まだ佐世保のスポーツ施設で起きた、無差別銃撃事件の記憶が生々しいというのに、今日朝、東京駅構内の交番で警察官が銃で自殺する事件が起きた。

場所となった東京駅の交番は、わたしも何度も通りかかったことがあり、知らないところではない。駅構内であることから、通行人の往来が激しいところである。報道では、自殺した警官が撃った銃弾は頭部を貫通して壁に当たり、はね返っていたという。一歩間違えれば歩行者にも当たっていたかもしれないのだ。
警察官の銃による自殺事件はここ数年報道されている。なかには女性警察官が銃で自殺したというものまであった。当然警視庁や各都道府県警察も事態を看過しているわけはなく、警察官のメンタルヘルスなどにもとりくんでいる。だが、それでもこういう事件が起きると言うことは、組織に問題があるのかもしれない。

だがわたしは警察というより、こうも銃で簡単にいのちを奪いまた自分のいのちを失う時代状況に目を向けたい。

実はわたしも中学生のころ、モデルガンをほしいと思ったことがある。カタログを集めたりガン雑誌を読んだこともある。しかし、家族に相談してみてやめた。なぜか。モデルガンを手にしているうちはいいが、絶対に本物、つまり銃弾を装てんして発射してみたいという欲求にかられる。はまりやすい自らの性格をじっくりみつめれば、おそらく恐れ早かれ早晩、改造モデルガンを手にしたいと思うだろうし、たとえ改造の知識がなくてもそれに詳しい知人に頼んで、一丁くらいは、という気になったかもしれない。それで済めばいいが、たぶん改造では飽きたらず、本物を、それも実弾を、と走るのは間違いない。

本物の銃を手にしたことがないけれど、恐ろしい武器だと思う。
弾倉に銃弾を入れて装てん、構える。的に向かって撃つ。そして次第に的ではなく生きたもの、動いているものを撃ちたくなる。
刀剣と銃の違いは何かと聞かれたら、わたしは「痛みを感じることができるかできないか」ということだろうと答える。刀剣は切って切られる方も切る方も痛みを覚える。斬り合いで刃がからだにあたり骨肉が切られる痛み。相手のいのちを奪うという痛み。だが、銃撃は、動いているものに致命傷をあたえるほどの正確な射撃が必要だ。撃ってしまえばからだに痛みを感じることがない。生命を奪うということへのためらいを感じさせなくなってしまう。
銃器から、ドレスデンや東京などの大都市爆撃やヒロシマ・ナガサキの核兵器などの大量殺りく兵器を手にしたわれわれ人類だが、大量に人命を奪うことができるに至って、良心がまひしてはいないだろうかと思う。もとより戦争は悪であり、兵器で人命を奪うことは許されないことであるのはいうまでもない。

アメリカでは銃による殺人事件が後を絶たない。今年も大学や高校で銃による発砲事件があった。そんな事件が日本でも起きるなんて。
まねというか、模ほうしていいことと許されないことのふたつがある。
いまこそが、アメリカのような銃のまん延による悲惨な事件を防ぐ、最大かつ最後の時期ではないだろうか。