まねをしていいものと悪いもの2007/12/19 22:57:30

まだ佐世保のスポーツ施設で起きた、無差別銃撃事件の記憶が生々しいというのに、今日朝、東京駅構内の交番で警察官が銃で自殺する事件が起きた。

場所となった東京駅の交番は、わたしも何度も通りかかったことがあり、知らないところではない。駅構内であることから、通行人の往来が激しいところである。報道では、自殺した警官が撃った銃弾は頭部を貫通して壁に当たり、はね返っていたという。一歩間違えれば歩行者にも当たっていたかもしれないのだ。
警察官の銃による自殺事件はここ数年報道されている。なかには女性警察官が銃で自殺したというものまであった。当然警視庁や各都道府県警察も事態を看過しているわけはなく、警察官のメンタルヘルスなどにもとりくんでいる。だが、それでもこういう事件が起きると言うことは、組織に問題があるのかもしれない。

だがわたしは警察というより、こうも銃で簡単にいのちを奪いまた自分のいのちを失う時代状況に目を向けたい。

実はわたしも中学生のころ、モデルガンをほしいと思ったことがある。カタログを集めたりガン雑誌を読んだこともある。しかし、家族に相談してみてやめた。なぜか。モデルガンを手にしているうちはいいが、絶対に本物、つまり銃弾を装てんして発射してみたいという欲求にかられる。はまりやすい自らの性格をじっくりみつめれば、おそらく恐れ早かれ早晩、改造モデルガンを手にしたいと思うだろうし、たとえ改造の知識がなくてもそれに詳しい知人に頼んで、一丁くらいは、という気になったかもしれない。それで済めばいいが、たぶん改造では飽きたらず、本物を、それも実弾を、と走るのは間違いない。

本物の銃を手にしたことがないけれど、恐ろしい武器だと思う。
弾倉に銃弾を入れて装てん、構える。的に向かって撃つ。そして次第に的ではなく生きたもの、動いているものを撃ちたくなる。
刀剣と銃の違いは何かと聞かれたら、わたしは「痛みを感じることができるかできないか」ということだろうと答える。刀剣は切って切られる方も切る方も痛みを覚える。斬り合いで刃がからだにあたり骨肉が切られる痛み。相手のいのちを奪うという痛み。だが、銃撃は、動いているものに致命傷をあたえるほどの正確な射撃が必要だ。撃ってしまえばからだに痛みを感じることがない。生命を奪うということへのためらいを感じさせなくなってしまう。
銃器から、ドレスデンや東京などの大都市爆撃やヒロシマ・ナガサキの核兵器などの大量殺りく兵器を手にしたわれわれ人類だが、大量に人命を奪うことができるに至って、良心がまひしてはいないだろうかと思う。もとより戦争は悪であり、兵器で人命を奪うことは許されないことであるのはいうまでもない。

アメリカでは銃による殺人事件が後を絶たない。今年も大学や高校で銃による発砲事件があった。そんな事件が日本でも起きるなんて。
まねというか、模ほうしていいことと許されないことのふたつがある。
いまこそが、アメリカのような銃のまん延による悲惨な事件を防ぐ、最大かつ最後の時期ではないだろうか。